ピル幻想

— 飲むのか、それとも飲まされるのか —

豊田 正弘

1. はじめに - 本稿立論の素材と目的 -

本稿では承認申請から九年の年月をかけて審議され、先日(一九九九年三月三日)の中央薬事審議会常任部会の審議を経て、六月にも医薬品として承認確実と言われる状況にある経口避妊薬としての低用量ピルをめぐる状況を論議の材料とする。六月に開く常任部会では、承認が妥当とする答申を厚生大臣に行うことが報道で明らかにされており、事実上のゴーサインとするマスコミもある。

本稿前半部においては、この問題とそれにまつわる周辺事情を医学・薬学的な見地からの専門的な論議としてではなく、それをめぐる論議、動向を社会的見地から論じる。従って参考となる資料についても、専門的見地からの低容量ピルの分析・知見より、寧ろ比較的一般に誰もが入手可能な新聞報道、公開されている「厚生省報道発表資料」(以下、報道発表資料)を基本的に重視して採用する。更にこれらの報道の結果としても存在する世論の動向についても言及する。

本稿後半部においては、避妊・中絶・先端医療技術(出生前診断諸技術)・資本主義と優生思想(優生学)との密通性などの問題についても触れながら現在のピル解禁論に共通する幻想性についてこれを解明する。

以上の素材を以て、先に挙げたような比較的一般に誰もが入手可能な資料に検討を加えながら、論議の拡散、不在状況に政治力学が作用していることを明らかにする。またそのことによってこの状況は、更なる深化を遂げることを明らかにする。更にここでも当事者幻想が介在すること、そのために問題が矮小化され、部分しか代表し得ない一握りの当事者による政治力学が作用することを明らかにする。

以上を本稿の目的とする。

2. 情勢 - それは立ち後れているのか、そのことが問題なのか -

九九年三月三日開催の厚生省の中央薬事審議会常任部会の審議が終了したことを受けて、各マスコミは一斉にこれを報じた。このことからも低用量ピルをめぐる論議が人々の関心事であることが推測される。新聞各紙から読みとることのできるのは、ようやく承認されることになったという共通の論調である。更に以下の各紙の文脈は、それが国民のレベルではなく、国際的なものであることを窺わせる。

しかし問われている薬事行政の果たすべき役割から言って、長期に渡る審議、諸外国とは異なる状況判断は、必ずしも立ち後れと言い得るものなのか。各紙はこのことをこぞって取り上げているが、このことは本質的な問題なのか。

「欧米から大幅に遅れ、ようやく解禁される」(九九年三月三日:毎日新聞

「日本は、世界の先進国で唯一、ピルを認めていなかった国だ。」(同日:朝日新聞

「米国で中高用量のピルが初めて認可されたのは、四〇年近く前の一九六〇年。日本でも六五年に承認される見通しだったが、審議は突然中断され、…」(同月四日:日経新聞

「ピル解禁 抵抗あるけど歓迎“世界の常識”」(同日:産経新聞

「中央薬事審議会の常任部会終了後に記者会見した厚生省の平井俊樹審査管理課長は、低用量ピルの申請から九年にわたった審議期間の感想について『妥当な期間だった』と答え、外国プレスの失笑をかった。」(同日:産経新聞

「『世界の常識』など解禁に賛成の意見が多かった」(同日:産経新聞

「医事評論家、水野肇さんの話 『ピルは世界中で使われており、いまや当たり前の薬になっている。…』」(同日:産経新聞

あたかも審議に時間を要したこと、その結果ピル解禁という世界の趨勢に立ち後れたこと自体が非難されているかのようである。これがもし仮に別の問題だとしたらどうか。例えば軍事・国防論に関する問題。改憲論議を一つのメルクマールとするこの問題においては、少なくとももっと本質的な論議が必要とされるだろうし、また誰もがそのことを知っている。この問題に対してどのような立場をとる人であっても、である。間違っても論議の期間が長期に渡ったことや、諸外国の軍事・国防の状況にならうことを以て事足れりとする人はいまい。

同様に審議を要する事案に鑑みて、必要な論議が尽くされることは当然である。世界各国の状況を把握しながら、それをも論議のための参考に過ぎない。問われているのは責任ある薬事行政であって、他国のそれを引き写す作業ではない。その際、最も重視されなければならないのは、薬剤としての安全性及び有効性に他ならない。審議の「中間とりまとめ」が行われた際の報道発表資料「経口避妊薬(ピル)の審議に関する情報について」(九八年一二月二日:医薬安全局)においてもそのことは明らかにされている。

平成一〇年一二月二日開催の中央薬事審議会常任部会において、ピルの有効性及び安全性に係る審議の中間とりまとめが行われ、(中略)ピルについては、有効性及び安全性以外にも(中略)様々な観点から審議が行われており…

報道発表資料「経口避妊薬(ピル)の審議に関する情報について」(九八年一二月二日:医薬安全局)

であれば世界的な時代の趨勢とか、国際世論などは二義的な問題に過ぎない。敢えて極論をいえば有効性すら程度の範疇の問題である。安全性こそが最も重要なのだ。そうした見地からすれば、以上のような各紙の足並み揃えたかのような論旨は、あくまで二義的なそれである。何故、十分審議は尽くされたのかといった問いかけができないのか。先の「中間とりまとめ」を以て、承認に向けて一気に加速し始めた動向にあと押しこそすれ、本質的な論議を以て警鐘を鳴らすものは見あたらない。

各紙はいずれも三月三日の報道発表資料で明らかにされた中央薬事審議会常任部会の審議内容を以て、「六月承認」「今秋販売・投与」などを伝えている。「事実上の『ゴーサイン』」(三月四日:産経新聞)らしい。何を根拠に、などとは言うまい。厚生省は報道発表資料「経口避妊薬(ピル)の審議に関する情報について」(九九年三月三日:医薬安全局)の中で、以下のようにその方向性をはっきりと打ち出しているのである。

今後、これまでの常任部会の意見を踏まえ、ピルを承認するとした場合の(中略)内容を整備した上で、次回常任部会で審議される予定

報道発表資料「経口避妊薬(ピル)の審議に関する情報について」(九九年三月三日:医薬安全局)

このタイムテーブルについては「世界唯一の『ピル鎖国』ニッポン」と題された『AERA』の記事があたかも予見していたかのようである。

カイロ会議で合意された近代的避妊法の入手、使用の権利がどこまで達成できたのか。成果を検討する国連の特別総会が来年六月に予定され、二月にはその準備会合がオランダのハーグで開かれる。ピルの認可申請を審議している中央薬事審議会の常任部会は三月開催の予定のため、ハーグの会合までに日本でピルが認可される可能性はない。その席で日本は、世界にどう答えるのだろうか。

「世界唯一の『ピル鎖国』ニッポン」(『AERA』No.52:九八年一二月二一日号)

確かにこの記事が書かれた時点では、「世界にどう答えるのだろうか」という状況であった。審議中という状況に変わりのないまま、「ハーグの会議で外国の代表にアンビリーバブルと言われた」という風評も伝えられている。しかし、六月に予定されている国連の特別総会においてはどうだろうか。状況は変わったのだろうか。危惧されるのはこの特別総会を射程に入れて審議が進められているという可能性である。そんなことはある筈もないと信じたいが、毎度のことながら外圧に弱いこの国の政治、護送船団・駆け込み乗車に安堵を覚えてしまう国民性である。薬事行政をめぐる情勢も決して楽観視できる状況にはない。

3. ピルの安全性 - 内分泌かく乱化学物質 -

3-1. 何が審議されるべきか

新薬の承認に関する審議、それはどのような見地からなされるべきであろうか。厚生省の書類はいずれも「有効性及び安全性」といった具合に「有効性」の後に「安全性」が記されている。私は、これはどうも順序が逆であるように思えてならない。ここに審議会の思想性が反映されているかのように思うのは、きっと私一人のうがった物の見方であろう。

医薬品は薬品である以前にまず物質である。その物質性こそが、評価の対象とされなければならない。ピルの場合だと化学合成物質。このことが重要である。その物質が人に対してどのように作用するのかということこそが、審議されなければならない。効用・副作用などとよび分けられる医薬品のそれぞれの働きは、物質の作用を主観的に二分したに過ぎない。物質の作用のうち、期待されるものが効用であり、望ましくない結果と結びついているものが副作用、更に本来期待されてはいないけれども、望ましい結果を生み出す働きがあれば、それは副効用とよばれる。

例えばある物質を飲んで人が死んだとする。自ら承知の行為なら自殺だし、他人に強いられたものなら他殺の疑いがある。しかしいずれの場合も結果を承知でなかったとすれば、すなわち死が招かざる結果であったとしたらそれは事故である。彼を死に至らしめたその物質を毒とよぼうが、薬とよぼうが、物質は作用する。だからこそ新薬の承認に際しては、その物質の作用が総合的に審査されねばならないのである。

今回審査の対象となっているピルは、経口避妊薬である。医薬品の有効性として避妊効果が審査される必要があることは当然だが、それ以前の問題として物質そのものの安全性が問われるべきではないだろうか。まして経口薬、人が口にすることを前提としているのだからそのことが最優先されるべきであろう。

3-2. どのように審議されたのか

報道発表資料「ピルの内分泌かく乱化学物質としてのまとめ」(九九年三月三日:中央薬事審議会)によれば、ピルが「合成エストロゲンであるエチニルエストラジオールを含有する製剤」であることが記されている。標題を参照するまでもなく、ピルは内分泌かく乱化学物質である。一般に環境ホルモンとよばれているが、これはその物質が環境中に溶けだしてホルモン様の影響を及ぼすことからそのようによばれるようになったという、言わば造語に過ぎない。ここでは医薬品の物質性と人に及ぼす作用が問われているので「内分泌かく乱化学物質の健康影響に関する(第三回)検討会」の論議を踏まえて「内分泌かく乱化学物質」という名称を用いる。

審議会は次のようにまとめたそうである。

これを服用した女性から服用後に排泄される合成エストロゲンの環境及び環境を介した人への影響については、以下のとおり判断した

報道発表資料「ピルの内分泌かく乱化学物質としてのまとめ」(九九年三月三日:中央薬事審議会)

これはこれで重要な調査ではある。しかしこれはあくまでも「環境及び環境を介した人への影響」に過ぎない。すなわち内分泌かく乱化学物質としての物質性、本質的な意味での作用である人に及ぼす影響が調査の対象となっているわけではない。ピルが避妊薬である以前にまず内分泌かく乱化学物質であることは言うまでもない。何故ならピルは、その生体への内分泌かく乱作用によって初めて避妊薬たり得るからである。その意味でピルの避妊作用は二次的なものに過ぎない。これでは全く何のまとめにもなっていない。その成分と作用、及び服用におけるリスク評価こそ重要なのである。「まとめ」においてその物質性は評価されず、「環境及び環境を介した人への影響」が判断された。問われるべき物質性の問題は審査されなかった。

3-3. 報道発表資料「経口避妊薬(ピル)について」(厚生省医薬安全局)の疑惑

結局「まとめ」は、本質的な問題がその対象とはされなかった。これについては、報道発表資料「経口避妊薬(ピル)の審議に関する情報について」(九八年一二月二日:医薬安全局)が、「有効性及び安全性以外にも(中略)内分泌攪乱化学物質としての影響の評価等の様々な観点から審議が行われて」いることを明らかにしている。同時に、「経口避妊薬(ピル)について」において、その成分も明らかにされている。これについては、次の通り。

経口避妊薬(ピル)について

経口避妊薬はステロイド系女性ホルモンを含有する医薬品であり、通常プロゲストーゲン(黄体ホルモン)と呼ばれる成分とエストロゲン(卵胞ホルモン)と呼ばれる成分の配合剤である。

一般的には、生理周期に合わせて毎日1個の錠剤を服用すると、配合されている2種類の女性ホルモンの作用により排卵を抑制し、避妊の効果が得られるものである。 日本において承認申請されている経口避妊薬は、低用量経口避妊薬であり、月経困難症等の治療に用いられている女性ホルモン配合剤からみると、含有するホルモン量を少なくしたものである。

欧米諸外国で、現在、使用されている経口避妊薬は、低用量経口避妊薬(低用量ピル)が主流になっている。

「経口避妊薬(ピル)について」(厚生省医薬安全局)

しかしこの記述には重大な過失、もしくは意図的な隠蔽がなされている疑いがある。すなわち経口避妊薬は内分泌かく乱化学物質とすべきところを「経口避妊薬はステロイド系女性ホルモンを含有する医薬品」とすることによって、あるいは内分泌かく乱作用とすべきところを「女性ホルモンの作用」とすることによって、である。この記述を見る限りではここで記されている「女性ホルモン」が実は内分泌かく乱化学物質であること、避妊作用はその内分泌かく乱作用によってもたらされることが曖昧にされている。このような曖昧な表記で一体誰が生体の内分泌系に対するかく乱作用を理解するであろうか。内分泌かく乱化学物質の投与が「女性ホルモンの服用」といった具合に、それぞれ工夫を凝らした穏和な表現に言い換えられている。こうした事実から何がしかの意図の存在を感じとることはできないだろうか。寧ろその方が、内分泌かく乱化学物質の作用を理解することよりもよほど容易ではないだろうか。

その上で当該文書は人体への影響が問題視されている含有するホルモン量について、低用量の安全性のみを殊更に主張するのである。

月経困難症等の治療に用いられている女性ホルモン配合剤からみると、含有するホルモン量を少なくしたもの/欧米諸外国で、現在、使用されている経口避妊薬は、低用量経口避妊薬(低用量ピル)が主流

「経口避妊薬(ピル)について」(厚生省医薬安全局)

まず前者の含有するホルモン量の問題について。ここでは全く異なる性質の二種類の医薬品(治療薬と避妊薬)が、単に含有するホルモン量をめぐって、あたかも同じ性質の医薬品であるかのように比較されている。表現方法による欺罔の典型とも言える。厚生省の言う「月経困難症等の治療に用いられている女性ホルモン配合剤」(中用量ピル)は、治療薬であり、現在承認の可否をめぐって審議されている低用量ピルは避妊薬である。治療薬は避妊薬ではない。両者は共に内分泌かく乱化学物質であるという物質性の範疇においては同一性を有するかも知れないが、審議の対象とされている医薬品という見地からすれば、全くの別物である。違った意味でここにリスク再調査が問われる必要はあるかもしれないが、両者は同一線上に並べて比較の対象とされる性質のものではない。

ところでピルの審議・承認問題をバイアグラのスピード承認との比較において論じ、男女差別・男性本位の薬事行政と批判する風潮が流行しているが、これも同様の見地からピル解禁論者の「ためにする論議」とでも言わざるを得ないないような、全く見当はずれの論理でしかない。バイアグラの申請から認可までわずか半年という異例スピード審議にある種の疑問は残るものの、それは十分に安全性が確かめられたのかという見地からのものだ。

薬事法に基づき製造(輸入)が承認されたクエン酸シルデナフィル製剤(バイアグラ錠)は、勃起不全治療薬である。現実的にどのような用いられ方をするかは別として、これは勃起不全という症状の治療に処方される医薬品である。報道発表資料「クエン酸シルデナフィル製剤の承認について」(九九年一月二五日:医薬安全局)には効能・効果として「勃起不全(満足な性行為を行うに十分な勃起とその維持が出来ない患者)」が挙げられている。特別な症状もないのに、内分泌系を操作するといった性質の避妊薬と同一線上に考えるべきではない。少なくともそれを服用する人たちは、治療を必要とするという意味での患者ではない筈だ。医薬品の安全性という見地から考えるなら、寧ろバイアグラのスピード審議の方を問題すべきなのだ。ところでピルは一体どのような症状(の患者)に対して「効能・効果」が認められるのか。

厚生省の言うように、既に女性ホルモン配合剤(中用量ピル)が月経困難症等の治療薬として承認されているにせよ、それはあくまでも治療薬である。更にそれが避妊目的に転用(目的外使用)されているという事実があるにせよ、そのことと避妊薬として審議を進めている低用量ピルの問題とが別問題であることは、薬事行政の監督官庁である厚生省自身が誰よりもよく知るところではないのか。繰り返しになるが、中用量ピルが既に月経困難症等の治療に用いられているいうことや、場合によっては避妊目的に転用(目的外使用)されているということは、現在の経口避妊薬の安全性をめぐる審議そのものに影響するものではあり得ない。

次に後者の「欧米諸外国で(中略)低用量経口避妊薬(低用量ピル)が主流」という記述について。この記述は、「欧米諸外国で、現在、使用されている経口避妊薬」の主流が低用量経口避妊薬(低用量ピル)であることを表したものであり、それが避妊方法の主要な選択肢であることを直ちに意味しない。敢えて言うとしたら欧米諸外国では既に承認済みという実績があるということである。しかしそうであったにせよ、何故にそれが主流となっているのかを安全性という見地から検討しておく必要はある。

それでは欧米諸外国で現在使用されている経口避妊薬の主流は、何故低用量なのか。何故中・高用量ピルから低用量へと移行していったのか。当初はそれは製造コスト削減がその目的であったと言われている。しかしこれは重要な問題ではない。問題は中・高用量ピルの含有ホルモン量による人体への影響(副作用)であった。米国のFDA(米食品医薬品局)が一九六〇年にピルの臨床使用を承認して以来、欧米を中心に急速に使用されるようになり、それと共に副作用も報告され、特に静脈血栓症との因果関係が問題とされるようになる。以降、含有ホルモン量を減量することが、ピルには求められたのである。

このことからピルの含有ホルモン量を減量させる取り組みは、そのリスクコントロールにあったことが分かる。しかしそれでも、ピルがその内分泌かく乱化学物質としての物質性(=内分泌かく乱作用)によって初めて避妊薬としての作用を実現する以上、これまでもそうであったようにおそらくこれからもずっと、どこまでいってもその固有の物質性からは逃れられない。すなわちピルは内分泌かく乱作用という呪縛から解き放たれることはあり得ない。FDAの承認やそのことと不可分に結びついている「欧米諸外国で(中略)低用量経口避妊薬(低用量ピル)が主流」と言われる現状があったにせよ、である。何故ならそれは生体の内分泌系をかく乱することでしか得られない作用の追求に他ならないからである。だからピルを医薬品として承認するか否かという安全性をめぐる審議においては、内分泌かく乱化学物質の物質性及びピルの実現する内分泌かく乱作用について、その内実を明らかにしておくことが決定的に重要である。このことを抜きにピルの安全性の確認や立証はあり得ないし、従ってその医薬品としての承認もまたそうである。

しかしこれまでみてきたように、この問題に関わって厚生省医薬安全局並びに中央薬事審議会が明らかにしてきたことと言えば、「合成エストロゲンであるエチニルエストラジオールを含有する製剤である」こと、「服用後に排泄される合成エストロゲンの環境及び環境を介した人への影響」と並びに「経口避妊薬(ピル)について」においてなされてきた恣意的な安全性の演出のみである。最も重要な問題に関わっての審議については、その形跡すらどこにも見あたらない。こうしてみると、この文書全体が安全性を印象付けんがためのアリバイ工作のようにさえ思えてくる。以上のことから当該文書中の記述は、全く何の安全性をも指し示してはいないと言える。従って審議は承認を準備する段階にあるとは言えない。マスコミで騒がれているように六月承認へ向けての動きが既にあるとすれば、それは全く時期尚早と言わざるを得ない。

3-4. ピルの作用=内分泌かく乱作用

これまで審議会の安全性に対する審議の内容が、如何に脆弱で如何に曖昧で、あるいはある種の意図を感じさせるものであるかを述べてきた。ここで審議会がこれまで決して立ち入ることのなかった根本的な内容、すなわちピルが内分泌かく乱化学物質として、どのように作用するのかということを明らかにしておきたい。

既に述べてきたように経口避妊薬ピルは、エストロゲン(卵胞ホルモン)とプロゲストーゲン(黄体ホルモン)の二種の合成ステロイドホルモンが配合された製剤である。この二種類の内分泌かく乱化学物質は脳下垂体に作用することによって、内分泌系をかく乱する。具体的な作用としては、排卵抑制・子宮頚間粘液の変質による精子通過阻害・卵管における受精卵の移動遅延及び促進作用による着床障害などの実現である。

以上、要するにピルによって引き起こされるのが、化学物質によってもたらされる人工的な内分泌系の操作だということである。このような言い方をすれば、期待される結果を生み出すための操作といった具合に合理化されてしまいそうだが、問題はその作用を特定できないところにある。期待される結果のみを導き出すためには、少なくともその作用が特定される必要がある。およそ多くの薬害は、思いも寄らなかった作用の結果である。そしてピルが内分泌かく乱化学物質であること、そしてその内分泌系への作用を利用することによって避妊作用を実現することは明らかにされているが、その物質が生体にもたらす影響の全貌はほとんどというより寧ろ全く分かっていないのである。これで一体どうして安全性を確認できるのだろうか。

3-5. 低用量の安全神話

その根拠とされている要因の一つに低用量という問題がある。医薬品はその多くが化学合成物質であり、期待される効果を得るためにはその物質の作用を効果的に活用するための処方が決定的に重要である。強い効き目の薬を必要以上に多量に投与した場合、それが毒となって体に害を及ぼすことはよく知られている。であればこそ、ピルもまたそのリスクを軽減するために低用量化への道をたどったのである。だからこそ厚生省もこのことが、安全性を示す一つの要因であるかのように主張してやまないのである。

しかし何度も述べてきたように、それが内分泌系をかく乱することを以てしか避妊薬たり得ないことは事実である。問題とされるべきは用量の問題ではなくて、作用の問題ではないのか。またこの用量と作用の問題については、以下のような注目すべき報告がなされていることも併せて明らかにしておく。

現在用いられている安全評価法では、環境中の内分泌攪乱物質にたいしてそのリスクを正しく評価することができないだろう。なぜならば、内分泌攪乱物質に対して閾値という考え方はあてはまらないうえに、内分泌攪乱物質は非単調な用量ー反応曲線を示すからだ。しかしながら、これらの特徴が現われる状況を定義すると、濃度にもっとも感受性が高いエンドポイント(毒性の影響として現われる症状)がわかる。すなわち、これによって逆に容認できる曝露量を決めることができると思われる。

「低容量効果と毒性評価試験法」D.M.SHEEHAN・F.S.VOMSAAL(『科学』岩波書店1998VOL.68NO.7)

しかしこれに対しては、以下のような反証実験もある。

Dr.vomSaalの低用量試験

Dr.vomSaalは以上のことから、ホルモン作用を持つ化学物質は従来の常識では考えられないような低用量でも毒性を示す。また、高用量では影響なくとも低用量では影響を示すと主張している。BPA(ビスフェノールA)の女性ホルモン様作用が問題にされるようになったのはこの試験報告によるところが大きい。

このDr.vomSaalの主張を調べるために、米国のCIIT(化学工業毒性研究所)とSPI(プラスティック工業会)が、用量の幅を大きくとって再現試験を行っている。CIITの行っている試験は、妊娠2日から離乳まで母ラットにBPAを溶かした飲料水を投与して仔の生殖器への影響をみるものである。投与量は0.5〜5000μg/kg/日と非常に大きな幅をとって試験している。対照群との差はみられないと速報されている。

「環境ホルモン問題は、何が問題か(その2)」西川洋三(『アロマティックス』第50卷 9/10月号)

すなわち、従来の毒物に対する安全評価法では、正しいリスク評価ができないという可能性を示唆しているのである。あくまで可能性ではあるが、これによれば低容量であることは少なくとも直ちに安全性を保障するものではない。

以上で少なくとも医薬安全局が拠り所としてきた安全性の根拠は、余すところなく批判されたものと考える。本稿においては、殊更にピルの危険性を煽る意図は全くない。しかし新薬の承認においては、少なくともその時点で安全性が確かめられる必要があるだろう。今や既に内分泌かく乱物質はそれが疑わしき存在なのである。このことを以てピルの承認は早急過ぎると考える。

4. ピルの有効性

前項までの論旨に従って、安全性に疑問が持たれる医薬品の有効性について論じる術を私は持たない。しかし報道発表資料「経口避妊薬(OC)の有効性についての中間とりまとめ」(九八年一二月二日:医薬安全局)においてはそれがなされているようなので、概観しておくことにする。すなわちそれは、その文中において承認へ向けたピル擁護論が展開されているからである。

「中間とりまとめ」の「避妊効果に関する事項」「1.飲み忘れ等を含めた効果」及び「2.他の避妊方法との比較」において明らかにされているのは、その絶大な効果である。当然のことながら、これが期待できないようなら最初から避妊薬としての用をなさない。分かりやすく言えば「妊娠の可能性を軽減します」などといった程度しか期待できないようなら、商品価値はないに等しいということだ。

注目すべきは「参考資料1.人工妊娠中絶に関する資料」並びに「参考資料2.副効用」である。まずは「参考資料1.」から。資料を見るまでもなく、日本が中絶大国とよばれていることはよく知られている。資料はそれを裏付けるものとなっているが、ピルの承認論議にこれを持ち出す意図が問題である。そこからは、結果としての人工妊娠中絶を未然に防ぐことにあることが読みとれる。しかし、中絶の問題を単にその数字(件数)で外国と比較するのは無理がある。

考えられるのが、法体系の問題である。堕胎罪と母体保護法による二重構造の問題が日本にはある。必ずしも豊かに保障されているとは決して言えないこの国の社会保障の貧困が、出産・育児に大きな影響を及ぼしている。中絶したくとも堕胎罪がそれを許さず、産みたくとも経済事情(社会保障)がそれを困難にしている。最も多くの割合を占めると言われる母体保護法の経済条項による中絶は、避妊の問題ではなく、育児・社会保障の政策上の問題として考えられるのが妥当である。そう考えるなら、逆に中絶件数の実態を避妊方法と結びつけて考える方が不自然である。女性の体を人口政策や優生政策の実現の場としている法体系、不十分な社会保障の問題として捉えられるべきである。社会保障の問題は、産まれてきた子供が障害児であった場合などに特に顕著である。こうした相容れない法体系の矛盾は、言わば母親の胎内を優性思想の実現の場としている。この問題は現在「厚生科学審議会先端医療技術評価部会」並びに「先端医療技術評価部会出生前診断専門委員会」において審議中の胎児条項、出生前診断にに関わる論議よって、より一層鮮明なものとなっている。これについてはまた後で述べる。

宗教上の問題も考慮されるべきだろう。欧米においてはカトリックに見受けられる胎児の生命尊重論者が少なくなく、そのことが少なからず中絶件数に影響しているものと思われる。

人工妊娠中絶による母体への影響と、それによって絶たれてしまう望まれない生命という二つの問題への回答。しかし、これはリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利)に関する問題である。この問題は重要ではあるが、「新医薬品の品質・有効性」といった審議対象とは質を異にする問題である。

次に参考資料2として副効用が挙げられている。ピルの有効性に関わっては、卵巣癌の発生の減少・子宮体癌の発生の減少・月経に関連した副効用・排卵抑制に関連する副効用・骨盤内感染症の発生の減少・良性乳房疾患の発生の減少が挙げられているが、これらはあくまでも副効用である。これらのものが期待する医薬品ならば、それは避妊薬として承認を受けるべきではない。効用が何を目的としているかは重要な問題である。クロロキン事件は、米軍が使用していたマラリアの特効薬の適応症を慢性腎炎に拡大して販売したことによる。こうした適応症の拡大は日本のみで行われ、この結果クロロキン製剤による薬害事件が生じたのは日本だけとされている。

こうした事例を教訓とするなら、医薬品の有効性に関わる審議において、軽々に副効用などに言及すべきではないだろう。と言うのもそれが承認の論議に影響する可能性があるからだ。現にピル解禁論者の中には、これら副効用をピルの有効性に挙げる人も少なくない。参考資料2のような内容はあくまで参考に過ぎないこと、そしてかつて適応症の拡大によってクロロキン網膜症という薬害事件を引き起こした事例を教訓として忘れてはならない。

有効性について私が述べることは以上だが、安全性の審議の方が幾倍も重要であること、このことは強調しておいてもし過ぎるということはないだろう。

5.ピル幻想

5-1. ピルは女性を解放するか

これまで現在のピル承認問題に関わっての論議について明らかにしてきたが、ここでは違った角度からピルをめぐる思想について考えてみたい。

ピル解禁をプロパガンダとして政治的舞台に登場したのは、「ウルフの会」からの決別の後、七〇年代のリブ運動に登場した「中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)」である。このグループは決して七〇年代のウーマン・リブの思想を継承するものではなかったし、そうした意味においては傍流にしか過ぎないが、確実に言えることはこのグループが掲げたスローガンを一つのメルクマールとして、ピルをめぐる論議がその後の女性解放運動の大きな課題となったということである。

七〇年代の日本の階級闘争の高揚という直中にあって、六〇年代とは違った当時のウーマン・リブとよばれる女性解放運動は、八〇年代以降フェミニズムとよばれるようになり、今や懐古主義的に語られるようになってしまった。しかしそれは中ピ連のようにマスメディアに揶揄されるような派手なパフォーマンスが姿を消しただけのことであって、運動は生命倫理を問う思想としてより一層の深化を獲得している。そしてその過程において最も大きな成果として獲得されたのが、障害者解放運動との結合である。

出産・育児を一方的に押しつけられ、その結果社会進出が阻まれているという現実を性差による差別として自覚した人々は、当然のこととしてこの性役割別分担からの解放とそのことによる社会進出を志向する。出産においては、自己の主体性を国家の人口政策・優生政策による管理から取り戻し、産む産まないを女性の権利として確立すること、育児においてはそれを男女共同の作業とすること、以て社会進出における性差を除去すること、そのことによる新しい社会の確立が問われたのである。こうした傾向はややもすると女性の男性志向のように誤解されがちだが、そうではない。女性が男性と同等の社会的位置を獲得するとか、あるいはそのために男性が協力するとか、そんな矮小化を許してはならない。今日政府の提唱する男女共同参画社会などは、こうした矮小化の最たるものである。仮に現実の問題としてそうした志向に基づいてこの傾向が生まれているかのように見えたにせよ、出産・育児の問題が生命倫理の問題として問われた際、それは問題の本質を浮き彫りにせざるを得ない。出産・育児をめぐる性役割別分担の問題は、単に役割分担という問題の質を越えて、性と生殖の問題に突き当たらざるを得なかったのである。そしてもちろん、運動の深化は問題意識をより本質的な問題へと向かわせた。そしてその問題意識は、「国家は個人の生殖・出産に介入するな」「産む産まないは女の権利」「産める社会を!産みたい社会を!」の三つの主張に結実するのである。

堕胎罪と優生保護法による管理において、国家は明らかに女性の性と生殖の問題に介入し、そのことによって人口政策・優生政策の実現を図ってきた。資本の需要に応じた労働力商品の供給、国家は個人の性と生殖に介入することによってこれの実現を目論んでいるのである。しかもこうした労働力商品生産労働が、全くの不払いで行われていることにも注意しておきたい。

このように自らの性と生殖が国家の下で管理されることを良しとしない人々は、産む産まないは女の権利としてその選択権を取り戻すことを志向し始めるのである。しかしこの主張は、それが一人歩きし始めることによって生じるであろうある種の危惧を十分予測することができる。果たしてその権利が行使されるとき、人はそれまでの歴史や思想の影響、社会環境から自由であり得るであろうか。否、そんなことはあり得ない。産み育てる社会環境が十分なものでなければ、仮にどのような選択権が与えられようとも、それはその選択の責任だけを与えられるに過ぎない。その結果、自己の歴史において優生思想が植え付けられた者は、自由な選択を以てその思想に従うであろうし、産み育てる社会環境に左右される全く制限された自由な選択しか成し得ないだろう。従ってこの自由な選択権には事実上の欺罔が潜んでいると私は考える。ところで、産むか、産まないかの主体は確かに女性であるかも知れない。しかし誕生の主体(生命)は、やがて生まれ来る子ども自身ではないのか。

優生思想による社会からの排除に抗することを自らの重要な問題として取り組んできた障害者は、こうした問題に敏感に反応した。すなわち、国家政策による強要にせよ、自由な選択に基づくものであるにせよ、産まない権利行使の対象がひとり障害者に対してのみ向けられるものであるとすれば、それは彼らの存在それ自体を否定するものに他ならないからである。彼らは優生思想が支配的な社会において、望まれざる生命として自由な選択を以て排除されるであろう誕生の主体(生命)に、自己を投影したのである。

リブ新宿センターの田中美津も、産む産まないは女の権利という考え方に疑問を呈する。以下は、それぞれ森岡正博「ウーマン・リブと生命倫理」(『生命・環境・科学技術倫理研究3』千葉大学)に引かれている田中の言説からの引用である。

「『産む産まないは女の権利』ということばがある。つまり女が堕す『権利』を行使する時、腹の子には生きる権利がないということか?! しかし、もし腹の子が人間ならば、生きる権利を持たぬハズがない。女はその腹に一体ナニを胎むのか?」

「中絶させられる客観的状況の中で、己れの主体をもって中絶を選択する時、あたしは殺人者としての己れを、己れ自身に意識させたい。現実に子は死ぬのだし、それをもって女を殺人者呼ばわりするのなら、敢えて己れを罪人者(ママ)だと開き直らせる方向で、あたしは中絶を選択したい。

あぁそうだよ、殺人者だよと、切りきざまれる胎児を凝視する中で、それを女にさせる社会に今こそ退路を断って迫りたい。」(田中美津)

「ウーマン・リブと生命倫理」森岡正博(『生命・環境・科学技術倫理研究3』千葉大学)

田中の産む産まないは女の権利という主張に対する疑問は、女性の堕す「権利」と胎児の生きる権利を真向かわせることによって、己れ自身が「殺人者」だという自覚へと到達し、女性にそれを強いる社会批判へと昇華するのである。そしてそれは「産める社会を!産みたい社会を!」という主張に結実することによって、リブ運動と障害者解放運動とが結合するのである。

私はここから更に論を進めるために、資本主義的生産関係が女性を無償の労働力商品生産労働者として社会に隷属させている状況を告発する。資本の継続は絶え間ない労働力商品の供給を要求する。女性は常に資本主義社会における労働力商品生産工場の労働者として、絶え間ない無償労働を強いられ続けているのである。ところで資本主義社会における労働が資本主義的生産関係の支配から解放されること、すなわち労働がその労働者の全くの自発的行為としてその主体に委ねられることがあり得るだろうか。それは資本主義社会における資本主義的生産関係の解体であり、経済構造上の自己矛盾である。資本主義社会は賃労働の搾取、及びこうした無償労働の上に成立している。だから中絶の権利が女性のそれとして行使されたとしても、それは資本の論理を逸脱するものではあり得ない。すなわち産まない権利をも含めた性と生殖に関する権利(リプロダクティブ・ライツ)の行使それ自体が、資本主義的生産関係の枠組みに規定され、結局人口政策や優生政策に寄与するということである。

だから私は、国際人口・開発会議(カイロ、九四年)、世界女性会議(北京、九五年)以降主張されるようになっているリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康・権利)という概念に対しても、同様の危惧を抱いている。女性が生涯に渡って自分の性と生殖に関する健康・権利が尊重されるよう要求することは、全く当然の民主主義的要求である。そうなのだ。これは全く当然の民主主義的要求なのだが、民主主義的要求であるが故に資本主義社会にブルジョア民主主義の徹底という形での問題解決策、すなわち退路を与えてしまう。田中が己れ自身を「殺人者」だという自覚によって、更に私が資本主義社会における労働力商品生産工場の無償労働者として隷属させられている女性の社会的位置を明らかにすることによって、退路を断った資本主義にブルジョア民主主義という抜け道を与えてしまうのである。

田中の思想的深化にも拘らず、それは必ずしも女性解放運動の主流として継承されるには至らず、紆余曲折を経て今日それはリプロダクティブ・ヘルスという衣装を身にまとい、リプロダクティブ・ヘルス/ライツといった権利主張の運動が幅を利かせている。前掲「ウーマン・リブと生命倫理」で森岡は以下のように記している。

『ネオリブ』一一号(一九七二)には、次のような明確な宣言がある。「生む生まないを決めるのは女の基本的権利であり、あらゆる避妊手段は女の手に握らねばならない。」「又、生む生まないを決めるのは女の基本的権利であり何らの条件付けも必要としない。」

中絶を女性の基本的権利としてとらえる考え方は、その後の、中絶をも含む生命の再生産プロセス全体を、女性の基本的人権としてとらえる考え方(リプロダクティヴ・ライツ/ヘルス)の祖形であるとも言える。

「ウーマン・リブと生命倫理」森岡正博(『生命・環境・科学技術倫理研究3』千葉大学)

こうした考え方は、最近の女性の権利をめぐる運動の思想的基盤を形成していると言っても、決して言い過ぎではないだろう。「第七回厚生科学審議会先端医療技術評価部会」(九八年三月一八日)は女性団体・障害者団体からの生殖医療に関する意見聴取の場として設けられ、そこでは主に先端医療技術に関わる問題、とりわけ出生前診断や胎児条項などについて各団体からそれぞれ見解が表明されたが、いずれの団体のそれも産む産まないは女性の権利として、リプロダクティブ・ライツという見地から選択に関する女性の自己決定権の問題として語られている。評価部会においてはそれが議事の中心でなかったことによってか、避妊の問題について触れた発言は比較的少ない。更にその問題について触れられた数少ない意見も避妊の選択すなわち産む産まないは女性の権利として、いずれも同じベクトルで語られている。更にその選択肢の問題、しかも低容量ピルについて触れられた発言はわずかに一度きりである。低容量ピルについて言及された唯一の発言として、以下に議事録より該当個所のみ抜粋する。

「3つ目に避妊の選択肢の拡大。産むか産まないかを選ぶ自由を得るためには、これが不可欠な要因です。ところが、日本では、御存知のように、低用量ピルが未だに認可されておりません。この1、2、3ともに、日本の状況は大変に遅れております。一口で申し上げれば、この分野では日本は優れて後進国であると言ってもよろしいかと思います。」(「からだと性の法律をつくる女の会」芦野由利子)

「第七回厚生科学審議会先端医療技術評価部会」(九八年三月一八日)議事録

ここでもその獲得すべき権利の問題として避妊の主体の問題が語られ、ピルはその主体性を女性が発揮し得る重要な選択肢(=アイテム)として考えられている。しかし前もって言っておくが、こうした考えには一応懐疑的になってみた方がよい。だってそうではないか、仮に中絶の権利が女性のそれとして獲得されたにせよ、それは社会の支配的な思想から自由ではあり得ないのだから。また果たして性と生殖の権利に関わる問題において、その主体はどちらか一方の性に委ねられるべき問題なのか。更にそれを女性が獲得することが本当に女性の抑圧された性の解放に結びつくものなのか。選択肢の拡大はそれを可能にするものなのか、ということである。

女性の性と生殖は優生政策の道具とされ、その主体は蹂躙されてきた。この際、重要なことはその主体の回復にあることは言うまでもない。しからばその主体の回復とは、一体如何なる姿で成されべきなのだろうのか。あらゆる側面におけるそれを一挙に成し得る術をここでは提起できないが、少なくともそれが男性の主体を抑圧する目的を持たないならば、避妊の場合は共同の作業として成されるべきではないだろうか。すなわち、女性が決めるから私たちで決めるへの深化である。この思想の転換を抜きにしては、性と生殖の問題は対峙する両性の関係から自由ではあり得ない。仮にピルを選択肢の一つとして考えるにしても、一方の性が避妊の決定権を掌握しようとする限り、それは誰か、すなわちどちらか一方の性によって独占されてしまうのである。すなわちまたしても一方の性は、蹂躙されてしまうのである。既に述べたように、ピルの服用を強要されることによって、性と生殖が蹂躙される可能性は極めて高いのだから。

日本で主に用いられているコンドームを用いる避妊方法は、男性の協力なしにはできない方法であり、これに対してピルは女性の主体による避妊方法と考えられがちである。しかしこれまで何度も述べてきたように、自由な選択による主体性の確保ほど当てにならないものはない。優生思想の下での自由な選択が障害者を排除するものであったように。女性が抑圧された関係の下では、ピルもコンドームも男性主体の避妊を実現するものでしかない。ピルは男性の都合で服用を強要されるものでしかないし、コンドームの着用もまたそうである。すなわちそれは双方の関係によって左右される。ピルが解禁されることによって選択肢は確かに増えることになるかも知れないが、それがピルだからと言って女性の主体をどうこうするというものではない。当然のことではないか。ピルは避妊薬であって、社会を変える魔法の薬ではない。避妊は中絶を回避する意味において考慮されるべき手段である。それは計画的な出産を可能とする有効な手段である。だから避妊の問題は中絶や出産と併せて考えられるべき問題である。仮にピルを特別な選択肢として位置づけるにしても、中絶の回避、計画出産という見地から考えられるべきであろう。

ところで堕胎罪によって中絶が認められていない日本において、それが認められているのが母体保護法(旧優生保護法)第十四条(医師の認定による人工妊娠中絶)に定める二つの場合である。

まず「一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」の方から始める。これは経済条項とよばれ、中絶件数の九九・九九%までがこれに該当するものとして報告されている。しかしこれはその前半部分と後半部分の意味がかなり違う。前半部分は胎児と母体の身体的理由であって、これは医療上の問題である。後半部分は経済的理由とされているが、これはすなわち社会が出産と育児を保障し得ていないことの現れである。産みたい社会であるかどうかはおくとして、産める社会ではないということだ。その判断の責任を個別の家庭や女性に押しつけているのである。

猶も矛盾として挙げられるのは、「母体の健康を著しく害するおそれ」である。そもそも中絶自体が、そうしたおそれのある行為ではないか。すなわち産めない社会の責任がここに転嫁されているのである。またそれから自身でその身を守るために、効果の高い避妊薬としてピルが位置づけられていることも注意しなければならない。その安全面における不確実性については既に見てきたところだし、ピルが避妊における女性の主体性を取り戻す特別な選択肢でないことも述べた。それどころか内分泌かく乱作用の犠牲になるのは、女性の側なのである。

次に「二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」の場合について。この条項は堕胎罪の存在故に女性の人権を保護する上で必要とされる条項である。逆に言えばこの条項の存在は、堕胎罪が女性の人権を侵害する存在であることのブルジョア民主主義の自己暴露である。現実の問題としてこのような状況下での妊娠・中絶は十分考えられる。堕胎罪によって中絶を禁じている以上、国家はこうした事態を補完せざるを得ないのである。最近ではドメスティック・バイオレンスの現実が数多く報道されており、夫婦間においても珍しくない例である。ではこうした事態を回避するためにピルを常用するという意見はどうだろうか。言うなれば保険としてのピルである。しかしこれではピルは、堕胎罪の矛盾を国家が補完した母体保護法を更に女性の自由な選択によって、予防的に補完させるものとは言えないだろうか。ここまで突き詰めて考えると、いよいよはっきりと浮かび上がってくることがある。すなわち、ピルは女性を解放するどころか、望まざる妊娠の責任まで一方的に背負い込ませる重石となるものということだ。これを抑圧と言わずして何と言おう。ピルが女性を解放するなど幻想に過ぎない。だってそうではないか。一体どうして一方の性だけが避妊のために医薬品を服用しなければならないのだ。避妊はその責任も含めて女性固有の問題ではない筈ではないか。

ここまで追いつめられて服用するピルが果たして女性の主体を復権すると言えるだろうか。要するに女性が抑圧された環境の下では、ピルもまた男性の都合に合わせて飲まされるものに過ぎないのだ。産みたくないのにそのことを要求される場合、例えば家族からの出産の強要に対してのささやかな抵抗として、あるいは自己の人生設計のためにピルを必要とする女性もいるかも知れない。しかしそうした暴力的な人間関係に向き合わず、ピルに表面上の回避を求めることが、果たして女性を解放するだろうか。否、やはりピルが女性を解放するなど幻想に過ぎない。

5-2. ピルは障害者の性に無関心でいられるか

更に私が危惧するのは、このピルという選択肢の拡大が障害者の性と生殖を蹂躙する可能性を考えるからである。障害を持つ女性に対する子宮摘出手術は、旧優生保護法下で当たり前のようになされてきた優生政策の所産である。先の審議会の論議で問われた先端医療技術(出生前診断諸技術)の問題は、結局のところ障害者を社会から排除することが自己目的化され、胎児条項によってそれを補完するものとなっている。であればこそ、その問われた問題に対して、参加した女性・障害者は「ノー」と言い切ったのである。

しかし先端医療技術(出生前診断諸技術)による障害者の差別的選別、生まれてくる障害者が生きていくための社会環境の不備、女性から導き出そうとする中絶という自己決定、それを法的に可能ならしめる胎児条項の導入、といった一連の優生政策のシナリオ以前に事実上の子宮摘出を可能とするピルの作用を私は看過し得ない。ピルの服用は必ずしもその主体が確立された下で行われるとは限らない。このことはもう何度も述べているが、いくら強調してもし過ぎることはない。日本の医療の現状でインフォームドコンセントは十分になされていると言えるだろうか。家族も含めて障害者を取り巻く環境は、決して彼女にピルを強要しないと言い切れるだろうか。実は私が言いたいのはそういうことなのである。選択肢の拡大は、必ずしも自己決定権を保障しない。寧ろ逆にそれを崩壊させ、自己決定がなされたかの如く装い、そのことによって責任だけを負わせる可能性をも秘めているのである。仮にピルを何某かの選択肢の一つに数えるにしても、自己決定権の方が先に確立されるべきなのだ。

ピルが性と生殖に関わる選択肢の拡大となり、そのことによって主体の復権を成し得るかのように考えること、これがピル幻想である。こうした幻想が生まれてくる背景には、避妊という重要な局面における男性の責任回避があることは言うまでもない。そしてこの局面における一方の他方に対する抑圧からの解放は、双方が向き合うという思想によってしか成し得ないのである。

5-3. 資本主義と優生思想

それだけではない。私はこうした避妊をめぐる問題について考えるとき、女性と障害者の関係を対立させてきた優生思想への危惧を想起せざるを得ない。堕胎罪と共に母体保護法(旧優生保護法)が存在する二重構造については既に述べた。旧優生保護法が母体保護法へとその姿を変えたとき、優生手術などに反映された優生政策に言及した部分は、第一条の「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という目的と共に、法的には削除された。しかしそうした括弧付きの「改正」は、法の表層部分での優生政策を改めたという程度のものでしかない。優生思想はこの法の二重構造によって温存され、法の表層部分から姿を消したことによって社会的にもひっそりと、しかし一層強固に根付くこととなった。強制不妊手術や子宮摘出も未だに為されているという深刻な現実はそのことを雄弁に物語るが、その思想が社会的に蔓延している証左としていよいよ鮮明になりつつあるのが、先端医療技術の進歩と生命倫理の確立との乖離である。

それを端的に見いだし得るのが出生前診断諸技術である。出生前診断技術とは、元々は胎児の状態を診断するための先端医療技術であり、その技術は他の一般的な医療技術同様、医療目的以外の目的を特定されるものではない。しかしそれが、選択的人工妊娠中絶という目的と結合するとき、胎児の選別が自己目的化され、その選別基準をめぐる新たな問題を派生する。しかしその前に、選別自体が許されるのかという胎児の問いに対する回答が用意されるべきであろう。何故なら出生前診断とは、元々は胎児の選別を意図したものではなかったからだ。それは胎児の選別と同義ではなかった筈だからである。

胎児の問いは更に重ねられる。社会における生命倫理の根幹に迫る問いである。生命倫理が胎児の選別を許すものと仮定するとき、そのことを可能ならしめるその生命倫理とは、それは一体如何なる哲学に依拠するものなのか。

まず前者の問いについて。私は、自らが生命の選別を肯定する社会に生きているという自覚と総括を以て、これへの回答とせねばなるまい。選別が許されるのかという問いに対して、その是非をおうむ返しに答えることが、如何に一般的、抽象的、無内容な回答に過ぎないかということを私は知っているからだ。仮に彼らが幾多のスクリーニング、出生前診断による選別をかいくぐって誕生することになるにせよ、そのときを以て選別が完結する筈もない。ここでの選別は実は彼らが胎内に宿る以前から既に開始され、更に誕生以降も継続する連鎖の一環だからである。女性の胎内もまた、社会から乖離したところでのア・プリオリな存在ではあり得ないのだ。この現実を容認するのではなく、しかししっかりと確認すること、これである。このこと抜きに個別の選択について是非論を唱えたところで、胎児をも含め、人々を渦中に慄然とさせる既成の生命倫理の価値観から一歩も出るものではないからだ。

次の問いについて。先に私は、生命の選別を肯定する社会に生きていることを確認した。胎内もその選別の連鎖に繋がれているということも。その限りでこの社会における生命倫理が胎児の選別を許すものという仮定は間違ってはいない。ではそれを可能なものとする選別の連鎖とは何か。それは資本主義が社会に要請する序列構造である。私たちは好むと好まざるとに拘らず、社会に存在するというただそれだけの理由でこの構造に組み込まれ、そのことによって同時にこれを形成しているのである。斯くして一切は、ここから自由ではあり得ない。それではその一切の存在を、私たちや胎児までをもその存在という理由において序列構造に組み込み、その連鎖の一環に繋ぎとめようとするその絶大なる力とは、一体何に由来するものなのか。それは一切の存在を単一の尺度で測定し、選別し、序列化する唯一絶対の価値基準にほかならない。私たちの社会におけるそれとは、すなわち資本主義的価値基準であり、その哲学とはすなわち資本主義である。

胎児の状態を診断する先端医療技術(出生前診断諸技術)が、選択的人工妊娠中絶という目的を伴って、胎児の選別のための技術として活用されるのもこれで説明がつくであろう。技術そのものは目的を伴うことがないにせよ、その活用に際してはそれが哲学に支配されることによってその唯一絶対の価値基準が胎児の選別基準となり、適用され、斯くして胎児は選別されるのである。そしてその際、その技術に期待されるのは専ら選別ための測定であり、当座の測定結果は取り敢えずは診断結果としてデータ保存される。インフォームド・コンセントにドクターの価値観が色濃く反映されることは周知の事実だが、データはその下で患者本人に対して開示されることとされている。この場合の患者本人とは、当該妊娠に直接関わる女性である。以降、彼女を取り巻く周辺事情が彼女に幾ばくかの影響を及ぼすことであろう。インフォームド・コンセント、彼女を取り巻く周辺事情、そしてその影響下におかれた彼女、いずれも資本主義の呪縛から自由ではあり得ない存在である。このような状況の中でそれまでは単にデータに過ぎなかった筈の診断結果が、次第に重要な判断を下すための材料という意味を帯び始めてくる。えっ、判断だって。一体何のための…。

インフォームド・コンセントを伴って彼女に告知されたデータが診断結果であったことを想起されたい。診察結果と言ってもよい。一般にドクターはその結果を以て患者に対してその内容を告知し、説明する。そして必要に応じて次の行為の準備に取りかかる。例えば治療の類のそれである。判断とは診断結果が明らかにされて以降、次の行為に取りかかるまでに行われる作業である。これまで何度も述べてきたが、この判断を下すのも私たちの社会の価値基準である。にも拘らず、ひとり彼女の自由な選択の結果に基づいて判断が下されたかのようにその責任のみを押しつけることが、如何に不当であるかということについても既に述べたところである。

ところで、ここで謂うところの必要に応じて、とはどういった場合なのか。それは社会(の価値観)が彼女に要請する場合のことである。女性が隷属させられている社会的位置とは、労働力商品生産工場の無償労働者としてのそれであった。社会が彼女に要請するのは、より高い価値の、すなわちより多くの剰余価値を生み出す労働力商品である。彼女がこの要請に対して従順であればあるほど、と言うより正確にはこの要請が強ければ強いほど、より高度な先端医療技術(出生前診断諸技術)が必要とされる。それを駆使することで得られることのできる詳細な胎児の情報は、資本主義的価値基準に照合することが可能である。この限りでは将来性を含めた試算に過ぎないが、より詳細な情報の収集によってより詳細な試算が可能となる。先の当座の測定結果は、こうして資本主義的価値基準に照合され、そのことによって遂に選別のための測定結果としての意味を持つに至るのである。必要とは選別のそれであり、それは社会(の価値観)が彼女に要請するのである。

それでは次の行為、とは何なのか。それは選別の実現である。具体的には先の試算に基づいて高い価値が認められず、そのことによって選別され、判断が下された胎児の排除、すなわち選択的人工妊娠中絶という名の生命の人為淘汰である。判断とは、実はこのためのものだったのである。その際必要とされるのが、先の社会的位置への女性の隷属であり、高度な先端医療技術(出生前診断諸技術)であり、その活用によって得られる胎児の情報であり、選別の基準となる資本主義的価値基準、そしてそれら一切を社会の名の下に支配する資本主義という哲学である。

資本主義はこのように一切を支配し、見事なまでにそれらを活用し尽くすことによって、更なる資本主義的発展を遂げようと目論むのである。その一環として先端医療技術(出生前診断諸技術)の進歩は、その哲学によって今後も要請されるだろう。その価値基準によってより多くの剰余価値を生み出す労働の担い手こそが意味をもつからである。では逆の場合、それによって比較的低い位置に位置づけられる、比較的少ない剰余価値しか生み出し得ない労働の担い手の存在はどんな意味を持ち得るのか。彼らの場合、その度合いに従って社会的存在としての価値が剥奪される。全くその価値が認められない場合もあるし、もっとひどい場合には社会に悪影響を及ぼす迷惑な存在として位置づけられることによって世間から疎んじられ、更にひどい場合、すなわち社会が彼の存在自体を拒んだ場合には、その価値基準によって評価の対象からも外され、積極的な意味における人為淘汰の対象とされる。

以上は資本主義社会においては障害が単なる個性ではあり得ないこと、物質的基礎が伴う現実であることの証左である。逆説的には障害が個性であるかのような主張が観念論に過ぎないことの物質的基礎でもある。

だから障害者を比較的低位に位置づける序列構造は、資本主義的価値基準の物質的基礎の現れである。彼らは彼らが生み出す価値、あるいはその可能性に従って、他の人々と同じ基準で平等に測定され、そしてそのことによって同じように個人の人格を無視され、誇りを奪われ、人間としての尊厳を傷つけられているのである。障害者も他の人々と同様に、それによって決定づけられる社会的位置故に選別され、排除されているのである。そして更にこの価値基準を胎児の選別基準として適用することによって、選別と選択的人工妊娠中絶という人為淘汰が実現されるのである。すなわち偉大なる先端医療技術(出生前診断諸技術)の進歩によって、彼らまでもが平等に生命の尊厳がけがされる時代が到来したのである。何と平等な社会よ。

資本主義は先端医療技術(出生前診断諸技術)の進歩を今後も要請するだろう。労働の担い手によって生み出される剰余価値にのみ意味を見いだそうとするそれは、その哲学故に確立すべき生命倫理との乖離を一層途方もないものへと深化させるに違いない。

この哲学と確立すべき生命倫理との乖離は、一八八三年イギリスの遺伝学者ゴールトン(F.Galton 1822-1911)によって体系づけられたとされる優生学にその端緒を見いだすことができる。優生学とは、人類の遺伝的素質を改善することを目的とし、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する学問と説明される。それを科学的な学問の範疇に含めることができるものとすべきか否かはなはだ疑問ののこるところだが、少なくとも当時の優生学者たちの間ではそう考えられていた。資本主義の誕生を一七六○年代のイギリスの産業革命による近代資本主義経済の確立に見いだすとすれば、優生学がその学問的な体系付けには百二十年余の時間を要したとは言え、その思想的発芽は一世紀以上以前に存在したことになる。何故なら優生学の謂うところの悪質の遺伝形質を淘汰し、優良なものを保存することとは、多くの剰余価値を生み出す労働の担い手、すなわち序列構造の上位にのみ意味を見いだそうとする哲学にほかならないのだから。

その意味で資本主義は優生学の産みの親だと言うことができる。剰余価値への飽くなき追求を目論む資本がそれを生み出す労働の担い手、すなわち唯一の価値の源泉である労働力商品の質に関して、頓着せずにすむ合理的理由があるだろうか。資本が拘泥するの質の向上に関しては、優生学の適用において可能である。その際、優劣の基準とされるのは、もちろん例の価値基準であり、その測量技術は先端医療技術(出生前診断諸技術)である。

優生学について、市野川は以下のように述べている。

まず確認しておかなければならないのは、優生学というのは(敗)戦後になって、むしろ説得力をもつ思想だということである。今もって多くの人は、優生学が戦争のための思想であり、政策だと決めつけているが、そうではない。優生学者にとって、兵役検査にもパスする優秀な男たちを戦場で殺し、逆に戦闘の役にも立たない「低価値者」を銃後で生き長らえさせる戦争は、最悪の「逆淘汰」に他ならなかった。ヨーロッパの優生学者たちは、第一次大戦後になって、危機感を一層、強めながら、優生政策の必要性を力説していったのである。

「福祉国家の優生学 - スウェーデンの強制不妊手術と日本」市野川容孝(『世界』一九九九年五月号)

全くその通り。思うに、それは第一に先に見てきたように資本の根源的欲求と結合する思想だからであり、第二にたとえそれが戦勝国においてかつて類を見ないほどの戦利品の獲得を以て終結したとしても、労働力の確保を成し得ない状況に置かれた資本はそれだけで十分立ちゆかなくなるからである。たとえそのときどきの資本主義の発展段階がどのような段階に際会していたにせよ、あるいは戦争の性格がどのようなものであるにせよ、である。とは言っても市野川の記述によれば、当時の戦争が「第一次大戦」であったこととしてはっきりと記されていることは象徴的である。つまりそれは当時の資本主義の発展段階が既に帝国主義段階にまで到達していたことの証であり、その戦争の性格が資本主義的帝国主義による帝国主義戦争であったことを示しているからである。すなわち資本主義の帝国主義段階への発展という物質的基礎が、弁証法的唯物論によって、一切の観念論や形而上学的思考からの訣別を以て、歴史的及び一般的思考として漠然と存在していた筈の優生思想的あれこれから、優生学へという量から質への転化を創出したことの歴史的証左に他ならない。このことこそまさに資本主義と優生学との関係性における密通性の証左であり、資本主義が優生学にとって産みの親であるばかりではなく、育ての親でもあることを何よりも雄弁に物語っている。

更に彼は、現在の先端医療技術(出生前診断諸技術)については以下のように述べている。

現在、私たちが手にしている、これらの出生前診断諸技術は、人間の淘汰を出生前に完了させるという、優生学者たちがすでに十九世紀末に思い描いていた夢、しかし未発達な技術的制約ゆえに、その実現手段としては不妊手術にとどまっていた夢を、現実のものにする。しかも、これらの出生前診断諸技術は、福祉国家という枠組みの中で普及する可能性を秘めており、事実、イギリスの多くの自治体は、生れてくる障害者に自治体が生涯、支払う福祉予算よりも結果的に安く済むという冷徹な打算、福祉国家ならではの打算によって、出生前診断のいくつかを全額公費負担で実施している。

「福祉国家の優生学 - スウェーデンの強制不妊手術と日本」市野川容孝(『世界』一九九九年五月号)

箱を開けたのは誰だったか…。もう、そんなことはどうでもよい。出生前診断諸技術を手にして確信することは、優生学者たちが見た夢はきっと最後に箱に残されたと言い伝えられる希望ではなかったということだ。夢は出生前診断技術という実態を獲得し、それに踊らされる人々を集めていよいよ盛り上がっている。

- さあ、技術は既にここにある。あとは法律を手に入れるだけだ。これでいよいよ理想的でしかも現実的な福祉国家の実現だ。冷徹だって、じゃあ君はこれから先ずっと彼らの面倒を見続けるべきだとでも言うつもりかね。とんだお笑いぐさだ。我々が汗水垂らして自分の口を養う一方で、ベッドに寝たきりのままで国から生活費をもらって生きている連中がいる。これだけでももう十分過ぎるほど不公平だというのに、連中を養っていくための税金まで納めなきゃならないなんて。連中の生活は我々の働きによって保障され、我々自身の生活は苦しくなる一方だ。そして生活がどうにも立ちゆかなくなった者は、彼らもまた連中と同じように国の世話にならなくてはやっていけないようになり、更にその福祉を支えるためにますます重い税が課せられるといった具合だ。もうたくさんだ。一体どんな罪でこんな仕打ちを受けなきゃならないって言うのだ。働きのない者の生活が働きのある者の生活を蝕み、それが次第に社会を貧困へと導いていく。そんな我々の社会の掟に反した状況を我々はもうこれ以上放置できない。このままではやがて我々の方が彼らによって淘汰されてしまう。偽善者、敢えてそう呼ばせてもらうとしよう。今既にこうして生きている我々の存在とまだ見ぬ命、そして働く者と働かざる者、そのいずれかが淘汰されてしまうという、この究極の選択が迫られたぎりぎりの状況における我々自身の判断に対して、それでもまだ君がこれを冷徹な打算と言うのなら。

我々は、我々自身の我々自身による我々自身のための社会、すなわち個人と全体の富と利益が自由と平等の名の下において保障され、公平な分配を実現する民主的な社会を要求しているだけだ。我々が手にしている技術や法律、あるいは医薬品などといった近代的・先進的な文明的所産のあれこれをその生産者であり所有者でもある我々が、我々自身の民主主義的要求の実現のために役立てようとすることが冷徹だろうか。更にそれらの文明的所産を個人の自由な選択に基づいて活用することに至っては、一体どんな道義的な問題があるだろうか。それを活用することも、あるいは拒否することさえ、この自由な選択の範疇に含まれる問題だというのに。さあ、君ももういい加減に偽善者ぶるのはやめたまえ。我々と共に最新の先端医療技術、すなわち出生前診断技術によって裏打ちされた、究極の福祉国家建設に向けた偉大な一歩を踏みだそうではないか。 -

しかしそれにしても…。と、私は再び思索する。このどうしようもない究極の福祉国家建設に向けての一気呵成のお祭り騒ぎを部屋の窓から見やりながら。ゼウスがパンドラにその箱を人間界に持たせてよこしたその真意とは一体何だったのか…。いや、これもどうでもよくなった。何故かって既に箱は開けられてしまったのだし、封じ込められていた災いはとびだし、そして蓋がされたのだから。しかし言い伝えられるように、もしその箱の中に今なお希望が残されているとすれば、箱は人間の叡知によって再び開けられるそのときを待ち続けているのではないだろうか。

6. おわりに

本稿の前半部においては、ピルの承認をめぐる論議が如何に拡散され、薄められ、承認へ向けた「ためにする論議」しかなされていないかを概観した。それはマスコミの論調において特に顕著であった。それらを見るだけではあたかも「承認のための審議」がなされており、その作業が単に遅延していることが大きな問題であるかのようであった。あるいはピルをめぐる国際的な動向が、何かしら重大なことであるかのような記述もあった。「バイアグラ」のスピード承認と比較して男女差別と非難するマスコミすらあった。

しかし最も重要なことは医薬品としての審査そのものにあることは言うまでもない。このことが今日の論議には欠落している。その要因の一つとして考えられるのは、承認されなければ商品たり得ないというきわめて当然の現実にある。商品として要求される資本主義的価値基準にこそある。開発された新薬は商品とならなければ全く意味がない。審議会の審議の末、厚生省において承認を受ける。こうしたあらかじめ用意された道筋をできるだけ短期間で、そして確実にたどらせること。このことを至上目的とする何らかの作用が働いたとき、厚生省は製薬会社の下請け機関となり、審議は見事に形骸化する。薬害事件はこうしてその温床で発芽するのである。

後半部においては、ピル解禁論の主要な構築軸である女性解放運動とその一つの潮流であるところのリプロダクティブ・ヘルス/ライツという視座からの中絶・避妊論を概観し、そこでなされているピルの位置づけを検証した。そこではピルは女性の主体による避妊方法と考えられ、自由な選択による主体性の確保を実現し得る社会変革のための魔法の薬であるかのようにもてはやされており、そのことはピル解禁論者にとってまさに格好の論理的支柱となっていた。これは幻想に過ぎなかった。更に問われるべき生命倫理という価値基準と現代社会における資本主義的価値基準との乖離を明らかにした。先端医療技術(出生前診断諸技術)を可能とする優生思想、優生学の価値基準が資本主義的価値基準にあることを解明した。このことはピルが先端医療技術ではないにせよ、それを取り巻く支配的な価値基準によって優生思想に基づく処方がなされる可能性を示唆している。その実現は価値基準に従って妊娠が望ましくないとされる主体をその価値基準の支配下に従属させること、すなわち詐謀を用いてピルを服用させることによって容易なものとなる。こちらは幻想などではなく、憂慮されるべき危惧である。

最後に最も重要な事実を明らかにすることになるが、本稿で取り上げたピルも薬害事件となる可能性の大きな要素を満たしている。それは本稿の前半部において展開したピルの物質性のみならず、その論議の現状にこそある。と言うのもピルをめぐる論議はその賛否を二分していないからである。何故なら、承認を待つ者はどのような理屈でも持ち出すことによってその論議に参加しようとするが、ピルの必要を感じていない者にとってはただ服用さえしなければいいことだから、論議に参加する必然性がないのである。斯くしてピル承認をめぐる論議には、一方的な政治力学が作用することになる。反対派のテーブルには誰も着こうとはしない。論議は賛成派だけの独壇場である。企業利益を代表する製薬会社・度々癒着の構図を露わにする厚生省・ピル解禁論者・薬事関係・その他医療関係者…、関わる問題の本当の意味での当事者を想定するなら、もっと多くの人々に論議は委ねられるべきなのだが…。

女性問題は女性、障害者問題は障害者、などという閉鎖的な当事者幻想が蔓延する限りはこうした現実は乗り越えられることがないだろう。社会問題においては誰もが当事者として自覚し、また認められ、共同の作業としてそれぞれの問題に当たっていくことが、いよいよ重要さを増している。最近流行のディスクロージャーなるものも、このことを抜きにしては単なる情報の垂れ流しに過ぎない。私はそのことを強く訴えておきたい。

本稿の目的は、もちろんいたずらにピルの危うさや内分泌かく乱化学物質としての不確実性を煽り立てるものではない。現在承認されようとしているピルをめぐる周辺の論議を概観し、以てその論議の拡散傾向、不在状況に政治力学が作用していることを明らかにすることにあった。監督省庁としての自律性を喪失し企業との恒常的な癒着構造を維持する厚生省、薬事・医療関係者らによる専門家支配によって、あるいは介在する当事者幻想よって、ここでもまた論議の全体化が阻まれている。その結果、ピル承認をめぐる論議には、一方的な政治力学が作用していることは既に述べたとおりである。

しかし本稿筆者である私は、縷々述べてきた製薬会社・厚生省・医療関係者のいずれの関係者にも該当しない。障害者ではあるものの、男性であり、性的不能者である。当事者幻想を信奉してやまない似非当事者主義の所産である既成の当事者概念からすれば、私はおそらく当事者の内に数えられない存在であろう。その意味で本稿は、恣意的な似非当事者主義によって蔓延する当事者幻想に対する、私の社会問題への当事者性を賭した思想的遊撃戦なのである。

参考資料

厚生省報道発表資料(九八年一二月二日)
厚生省報道発表資料(九九年三月三日)
「世界唯一の『ピル鎖国』ニッポン」(『AERA』No.52 九八年一二月二一日号)
D.M.SHEEHAN・F.S.VOMSAAL「低容量効果と毒性評価試験法」(『科学』岩波書店1998VOL.68NO.7)
西川洋三「環境ホルモン問題は、何が問題か(その2)」(『アロマティックス』第50卷 9/10月号)
森岡正博「ウーマン・リブと生命倫理」(『生命・環境・科学技術倫理研究3』千葉大学)
市野川容孝「福祉国家の優生学 - スウェーデンの強制不妊手術と日本」(『世界』一九九九年五月号)

『現代思想』第27巻7号(特集 大学改革)、24頁‐45頁、1999年6月。


2009年9月23日水曜日
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