支配の空間イデオロギーとしての「市民社会」

豊田 正弘

1. はじめに

スケジュール化された日常生活の中で、「市民社会」について改めてじっくりと考えを巡らすことなどそうあることではないだろう。実はそのことが今日の過密化する市民社会の一員であることの証なのだ。忙しく過ぎる日々の中で、複雑な市民社会全体を考証する作業などそう誰にもできることではないだろうし、またそんなことが必要だろうか。誰もが同じように忙殺され、社会とはそんなものだと信じ込もうとしているのかも知れない。やがてそれならば、誰もが同じ環境を共有しているのであれば、それについて深く考えたりすることはなくなってしまうのかも知れない。

しかし、ぼんやりと、漠然とではあってもその渦中にいることを誰もが暗黙の内に了解しているのではあるまいか。たとえその言葉の持つ意味や歴史について説明ができなくとも、その渦中にいることを暗黙の了解とし、自己がその構成要因であることを確認する。このことを本稿の出発点としたい。「市民社会」がいったい何であるのかといった学術的考証とは別に、しかし周囲を見渡したときにおぼろげに見えてくるそれはいったい何であるのか。

本稿が『現代思想』誌「市民社会」特集のもともとの動機、「昨今のいわゆる『参加型市民社会』に対する疑問」への回答の一助となれば幸いである。

2. 「市民」とは誰か

そもそもここでいうところの「市民」とはいったい誰のことなのか。ここでいうところのそれは行政単位としての「市」に住む住民のことを指しているのではない。最近ではその地域を無制限に拡大した「地球市民」などという用語が、グローバルな市民運動においてしばしば用いられるが、これもここでいう「市民」とは違う。

「市民社会」という概念が内包する「市民」とは、第一に王権による絶対的な支配を前提としてそれとの対峙関係にある人々、第二に(本稿ではこちらを主題とする)人々がそれぞれのアイデンティティを有しながら、同時に「市民」という共通の概念で括られることである。本来個別に存在している人々が、共通の土壌や目的意識を獲得しないままに集合と化する概念である。すなわち「市民社会」と言うとき、それはあたかも「市民」によって構成される社会のことを指しているように聞こえるが、私にはそれはごまかしのようにしか聞こえない。「市民」が共有するアイデンティティ、すなわち集団的アイデンティティが見えてこないからだ。そこには特別の共通項などなく、それを一括りにして「市民社会」と呼ばれることによって始めて、その集合の構成要素に「市民」という共通項が生まれているのではないだろうか。もし仮にそうだとすれば、「市民社会」にも「市民」にも特別な意味など備わっていないと言うことが言いうるであろう。というのはこの考えによれば、「市民社会」という名の集合がまず前提され、その構成要素を「市民」と名付けただけのことであり、ある種の分界線を引いたようなそぶりをしながら一切を一括しただけに過ぎないからである。

しかし、この「一括しただけに過ぎない」ことが、実際は実に大きな意味を持っているのである。

3. 「一般市民」のアイデンティティ

「市民社会」は様々な人々を自らの範疇に包含して、それを形成する要素とした。様々な人々はこの限りで「市民」という共通項を共有する。その集合においては間違いなく誰もが「市民」であるはずなのだが、現実はこの中に多数派としての「一般市民」を見いだすことができる。

「一般市民」と区別される特別な人々とはたとえば皇族であったり、政治的権力として民主主義を行使しうる政治家、その権力機構を支える官僚、などほかにもあげることはできる。しかし特徴的なことはこれらは「一般市民」と対峙させることによって始めてその「一般」性を喪失するということである。

日本において別格の位置を獲得しているのは、皇族である。天皇制に関する論議は割愛するが、一族の「象徴」としての存在自体、すでに特別な存在と言える。このことは制度や法体系によらなくとも、誰もが現実的に感じることのできるものだ。しかしその存在は本来制度上のものであり、個人の存在に付与された位置ではない。制度の存在という現実の上では一族に「私人」としての存在はあり得ないが、その制度の解体の後には皇族もまた「市民社会」の一員足りうるであろう。制度の現実からはとても考えられそうにはないが、「市民社会」の括り方自体がそれを可能とする性質のものなのだ。

それ以外の人々の存在は流動的、かつ多面的である。皇族と違って、その存在が制度化(固定化)されていないからである。たとえば選挙によって選出された議員などは単なる職業に過ぎない。しかしその職業に付随する民主主義を直接行使する権力は、彼を「一般市民」とは区分する特別な存在にしてしまう。ひとたび彼が「一般市民」の代表として民主主義を行使する立場になったとき、彼は非力な一般市民ではあり得ない。一般市民が自らの声を民主的に反映するためには、議員となった彼の権力(権限)に依拠せざるを得ない。陳情と呼ばれるならわしがその現実を雄弁に物語る。はたして政治家が真に一般市民の代表権者として存在するのなら、一般市民からの陳情を受けて行動するスタイルによらなくとも自身の政治活動の一環によってその任は果たせるはずだ。なぜなら彼もまた一般市民としての集団的アイデンティティを共有しているはずだからである。しかし実際はそうではない。一般市民が彼の権力に依拠し始めたとき、彼は一般市民に対して民主主義的権力を行使し始めていると言えるのではないか。

しかし重要なことはこうした彼らでさえ尚、一般市民の範疇に存在していると言うことである。その民主主義を行使する権力は彼に存在するのではなくて、議員という彼の職業に付随しているにすぎないからである。政教分離の立場からの批判の声をかわして、「私人として」靖国神社に参拝する議員が毎年存在するという現実が、そのことを物語っている。

一般市民からは遠い存在であるように思える政治家でさえ、このように一般市民の範疇を越えるものではない。このようにして考えると、その時々において誰かが一般市民と対峙する場面があったとしても、そのことだけをして彼を一般市民という概念の外におくことは間違いであると言える。一般市民と公的権力とが対峙している場面においてさえ、向かい合っている個人はそれぞれ一般市民の内に存在する。

自衛隊員、警察官、高級官僚、国家・地方公務員など単なる就職先の呼び名に過ぎない。反戦自衛官も国粋主義者の自衛官も、彼ら自身が国家権力に打撃を与えるほどの現実的な意味での革命なりクーデターなりを準備していない限り、一般市民としての思想信条の範疇を越えるものではなく、そうした問題に関心のない人から見れば趣味の領域に過ぎない。市民デモとそれを規制する機動隊員、ましてや役所の窓口での対応を巡って怒鳴りあう一般市民と公務員の間には、職務以外に何の差異も存在しない。このように国家機構末端の出先業務を遂行する公務員もまた一般市民に過ぎない。彼らもまた平等に国家の支配を受けているのである。

では市民社会においては人々の間には職業的差異しか存在しないのか。人々が市民的諸権利の内に職業選択の自由を獲得している今日、それは最早決定的な差異ではあり得ない。注意しなければならないのは、「市民社会」という集合に封じ込められて「市民」と呼ばれ、そしてよりいっそう差異が存在しないかのように「一般市民」の称号を受けているという現実である。その社会では誰もが同じ社会的位置を獲得し、人と人との間には矛盾など存在しないかのようである。

個別具体的に存在するはずの「人々」が、市民的諸権利と引き替えに「市民」一般として社会に存在する。彼らは無印の「一般市民」であり、そう括られることによって最早個別のアイデンティティは喪失した。集団的アイデンティティはしばしば個別のそれを抑圧する。今日「一般市民」というそれ以上に巨大なアイデンティティが存在するであろうか。

かくして一般市民という概念はあらゆる人々の個別的利害を支配する。与えられた市民的諸権利と抑圧される個別的アイデンティティ、「市民社会」はこうした環境を私達に平等に振る舞ってくれるのだ。

4. スティグマを刻み込まれた「市民」

何と言うことだ、全ての人々が市民的諸権利の獲得によってもはや誰もが平等というのがこの社会の建前となっている。誰もが「市民」一般であり、そこに社会矛盾としての「差異」は見いだし得ない。しかし実際はどうか。貧困・性・人種、そして障害など周囲の現実を見渡したとき、それでもこのようなお気楽な「市民社会」を現実のこととして語ることができるだろうか。人々を「市民」などという没階級的概念で括る限り、社会の構図はますます見えにくくなってしまうということだ。今日の市民社会がすべての人々にとって平等なシステムではないことくらい、今時子供でも知っている。社会には様々な人々が存在するが、それは決して画一的で平等な存在などではない。「市民」一般として存在するものではないのだ。ここには明らかに序列が存在する。資本主義的生産関係を軸とするそれによって支配・被支配の関係を形成しているのである。

その実態は複雑に交錯するものではあるが、何よりもスティグマの存在に目を向けることによって明らかとなるだろう。もし、仮に市民的諸権利の獲得によって画一的な平等が実現しているとすれば、ある種のスティグマが個人に与えられていたとしてもそれは彼の人生を左右するようなものとはならない。というより、正確にはそれは最早今日言うところのスティグマ足り得ないだろう。少なくともそれは、彼と社会との間に他の人と違った決定的な問題を生み出す条件となってはならない。すなわち「違い」は社会的な差異としてではなく、誰でも等しく個別に有するところの「個性」の範疇に含まれてしまう(なんと言うこと、市民社会においては貧乏は個性なのか)。しかしある種の烙印を押されることによって社会からの排除を余儀なくされる現実をもって、それを決して「個性」とは言うまい。

しかし「市民社会」は人々を「市民」一般として還元してしまうので、その差異を「個性」の範疇で容認することになる。しかし実際はそうではない。容認するどころか(あるいは容認したふりをしながら)市民社会の名の下に彼を蹂躙するのだ。特定の個人情報は明らかに彼を社会から排除しようとするし、それでもしがみつこうとする彼をかろうじて社会の最下層に位置づけようとする。市民社会が彼を疎外しようとするその要因は何か。彼は市民的諸権利が存在するにも関わらず、市民として自立する努力を怠ったのだろうか。否、多くの場合そうした人々は個別の努力によって懸命に社会にしがみつこうとしてきたのだ。ところで市民社会において市民として存在するためには、ある種の「努力」が払われなければならなかったのか。

繰り返しになるが広範な市民の範疇には、様々な人々が存在する。マイノリティと称される人々もまたいずれも「広範な市民」「一般市民」の範疇である。当然スティグマを抱える彼もまたそのひとりだ。日本でこの問題について語る際には在日朝鮮人問題と被差別部落問題を避けることはできない。また、アイヌ・琉球と大和の関係も重要な問題である。いずれの問題においてもそれらが本人に与えるスティグマは、本人の選択の結果ではない(貧乏もそうだ)。しかしこれらの問題はその問題が終焉を迎えるまで彼にスティグマとなってのしかかり続けるのである(ここであえて「彼が死をむかえるまで」と書き表していないことに注意されたい。たとえば「差別戒名」などの存在は、問題が当人の死をもっても完結しないことの証左としてある。)。

こうした環境におかれた人々は、多くの場合当初から二級市民としての扱いを余儀なくされてきた。だからこそ、人々は市民社会の一員として生きていくために一般市民として社会に受け入れられる努力を惜しまなかったし、また今日においてもそうである。社会の差別構造に対する対抗措置としての反差別運動がそうであり、また個別的にもスティグマを受けてあまりある自己を確立しなければならなかった。二級市民が一般市民の扱いを受けるためには、そのための努力が必要だったのである。しかも市民社会はこうした努力にも関わらずなお、彼らにとって高いハードルを強いるのである。「さあ、飛んでみろ。君たちの置かれている状況が『不当な差別』であることを実証するために。」

このように市民社会におけるマイノリティの一般的な生活は、スティグマとの闘争そのものであり、こうした過酷な生存競争の連続である。もちろん、このハードルを越えた二級市民には輝かしい「準一級」の称号が与えられ、問題はうやむやにされてしまうのだが。

たとえば市民社会は、彼らに対して社会に同化することを強要する。それは民族性の放棄であったり、時には反差別運動の解体であったりといったものである。思うにこれは建前の平等を条件として根本的な矛盾を隠蔽する、そうした今日の市民社会の抑圧のシステムであり、「平等」の内実ではないだろうか。

5. 支配機構としての市民社会

先に述べたように市民社会は人々を「市民」という集団的アイデンティティ、いわば標準基準に同化を強要することによって、社会問題のいくつかを個別的なそれへと解体する。支配・被支配の関係が鮮明な社会においては、あからさまな抑圧・分断などがその政策として採用されてきたものだったが、市民社会はその支配形態を深化させたものと言える。個別に抱え込む問題が社会問題として浮上する以前に、個別の問題として民主主義的に抑圧する。だから問題はいつも「市民社会」の厚い壁の前にしばしば立ち止まらざるを得ない。

たとえば障害者問題。この問題も先に挙げたいくつかの問題と同様、社会問題である。このことは障害者問題に限ったことではないが、しかしその渦中にいる個別の障害者にとってはそれと同時に、あるいは時にはそれ以上に個別具体的な問題なのである。一部に流行する障害を個性ととらえる考え方は、個別の障害者を個性的な「一般市民」として市民社会に受け入れてみせることによってその欺瞞に貢献する。このとき、障害を巡る問題は彼の個別事情の問題となり、障害者はこのように問題の社会性を放棄した形で市民社会に承認されることになる。現実的にはこうした同化策動に対して、その欺瞞を鮮明にすることによって独自のアイデンティティを確立する動向も見受けられるが、これが一部ではマイノリティの主導による「マイノリティ」という集合への同化運動となっている。すなわち「市民」一般(マジョリティ)に「障害者」一般(マイノリティ)を対置するような「当事者幻想」による当事者運動主義である。実際は健常者総体に障害者総体を対峙させており、障害者市民という言葉も用いられることがある。これは「市民」という集団的アイデンティティを健常者・障害者といった同じく集団的アイデンティティで二極に分割し、両者を対峙させる。その対峙関係における闘争によってある種の社会的位置の獲得、及び民主主義的な諸条件を整備することが政治的には問われている。

しかし私はこうしたマイノリティとしての集団的アイデンティティの獲得及び、経済闘争の重要性を認めつつも、いくつかの点において躊躇せざるを得ない。たとえば障害者という集団的アイデンティティが個別の障害者を抑圧することや、総体としてのそれに基づく運動が、障害者の一定の部分を疎外することもある。たとえば精神障害者、知的障害者、重度障害者など、また非常にまれな障害者の例などは部分として構成される以前は疎外されていたのである。現在もその残滓は運動の限界として存在するものの、課題として認識されるようになった分だけ前進したと言えるのかも知れないが。

「当事者幻想」はそれがマイノリティの側からだけではなく、マジョリティからも支持されることによってますます強大な圧力となる。しかし実際は双方の一般という概念自体が幻想でしかない。その問題の存在は社会的であると同時にあくまで個別具体的なのだ。このようなイデオロギーによる運動は、彼らを社会から疎外したのと同じ価値観によってマイノリティの中にさらにマイノリティを生み出す傾向を内包している。この傾向との意識的な闘争抜きには、いかなる「解放運動」をも資本主義的価値観による抑圧と無縁ではあり得ない。経済闘争もまた必要な闘いではあるが、それは問題の根幹に迫ることはできない。逆にこうした価値観との闘争によって市民社会の中に分界線を引くことがマイノリティのアイデンティティを確立するために求められるのである。

今更言うまでもないが、市民社会というイメージに内包される市民という概念に裏打ちされた「平等」は非常に現実味の薄いものと言わざるを得ない。国民国家における国民概念と同様、そこここに矛盾をはらんでいる。たとえば日本軍のもとに徴用された在日韓国・朝鮮人は、支配国家の国民と「平等に」軍事に徴用され、負傷したとしてもその保障は全く不平等である。国家の軍事に対する貢献が同じようには認められない。寧ろこちらの例の方がはっきりとしていると考えられるのは、国民国家の外縁(分界線)が国家に果たした役割ではなく、「国民」という概念の内に存在するという事実である。しかし「市民社会」においてはその外縁は曖昧であり、確たる外縁は存在しない。しかし人々を分断する分界線は至る所に、そう、社会の内に張り巡らされているのだ。

「市民社会」においても確かにいくつかの表面上の諸権利は平等に獲得し得ているが、資本主義的生産関係による序列構造の形成に伴う支配・被支配の関係はそれをはるかに越えて強固であり、現実的である。すなわち今日の市民社会における「平等」の実態は、資本主義的生産関係、その価値観を基準とする「平等」であって、これに全く従属するものである。障害者問題が個別的にも周囲に理解されにくかったり、障害者集団の内部にさえ対立軸を抱え込んでいたりする根拠の一つである。すなわちその価値観で図ったとき、彼は「市民社会」における「市民」足りうるのか。これがその分界線である。障害者がその内にいるのか外にいるのかについては後で述べる。

今日用いられている「市民社会」という用語とその意味の最大の背信は、第一に漠然としていて特段に意味を持たないかのようであること、併せて第二に社会の上層に対置して反権力的な要素を意図するかのような印象を与えていることではないだろうか。漠然として特段に意味を持たないかのようであり、反権力的な印象を与えつつ、資本主義的生産関係を支える支配機構であるところに「市民社会」の意味があるのである。

さてそれでは昨今行政などが市民に対して呼びかける「参加型市民社会」とは何か。もはや問われるまでもないことだが、より一層の支配機構の強化であることは言うまでもない。たとえば特定の市民の生活権の防衛のために、「参加型市民社会」はホームレスと呼ばれる人々を民主的に排除する。「参加型市民社会」が誰に寄与するものであるのか、またそこからも排除される人々の存在、こうした問題について特に注意して考える必要があるだろう。でなければ知らず知らずのうちに行政の片棒かついで市民社会による支配の強化に参加させられていることにもなりかねない。市民社会とは支配のメカニズムに他ならないからである。

6. 結語 - 市民社会に浮上する障害者問題

市民社会のもとでは民主主義的諸権利の獲得などによって多くの矛盾が隠蔽される。しかしほかの矛盾が隠蔽されることによって、よりいっそう解決しがたい問題として障害者問題が浮上するように主張される。すなわち生産性という価値観によってである。

資本主義を補完する市民社会は人々を(資本主義という)特定の価値観によって、「市民」という括りで民主主義的に支配している。大雑把な言い方をすれば、そこにはブルジョアジーとプロレタリアートという階級対立や序列は隠蔽され、「市民社会」という支配に取って代わる。だからこうした価値観が唯一絶対のものとして深化すればするほど、それ以外の要因による序列は二義的なものとして位置づけられるようになる。「(彼の)労働は価値を生み出しうるか。」という命題が与えられたとき、それまで威勢の良かった市民主義者や似非平等主義者は、たちどころに口を閉ざすかお茶を濁すかし始める。彼らは生産性基準原理に対して全く対抗すべき論理を持ち合わせていないばかりか、時として資本主義的価値基準をもって「障害者問題はほかの(マイノリティの)問題とは違う。」などとこの問題の「特殊性」を是認する。彼らの言い分によれば、たとえば「人種や性別などの差異に根拠する差別は生産能力の点において差別の根拠に乏しいが、障害者と健常者との間に存在するそれは、それらとは違う。」といった意見である。はっきり言えば生産能力という物差しで測ったとき、ほかのマイノリティの問題は根拠がないが障害者問題は差別される根拠を有すると言っているに等しい。果たしてそうか。

実はこうした意見がもっともらしく提出されることが障害者問題の特殊性であり、問題を複雑にしている点に他ならない。「障害者は健常者との比較においてその生産性が乏しい。」のであれば資本主義社会における一つの選択肢はその社会における優性政策の正当性ということになる。一部の障害者、あるいはマイノリティはしばしばこの呪縛から逃れようとして必死の努力を試みる。しかしこの努力を強いる環境自体が差別であることを見いださねばならない。百歩譲って人間の能力に生産性基準原理を導入したとして、障害者と健常者とのその比較をいったいどのようにして行うのか。その比較、否、それ以前の障害者・健常者という図式の一般化からすでに障害者問題は生起していると言わねばならない。生産能力別の序列を肯定するとしてもそれは個別になされるべき筈である。

障害とはそれを有する社会であり、同時に個に内在する環境に他ならない。たとえば車椅子を利用する障害者に対して健常者がしゃがんで話しかけるとき、それはいったい誰のための行為なのか。問われているのは健常者の側の主体である。障害者の目の高さに合わせているのだとすれば、それは未だ福祉的行為にとどまっている。しかしもし、彼(健常者)にとってそうすることが話しやすいからだというのがその行為の理由であるとすればそれは彼の主体の発現であるということだ。この場合、彼が変わると言うことは社会が変わると言うことだ。障害者の「いきがいづくり」のために無理矢理雇用を作り出そうとする行政主導の「参加型市民社会」は、結局のところ障害者を二級市民として支配する試みに過ぎない。重要なことはこうした特別枠ではなく、一般市民としての社会的位置を獲得することなのだが。

かくして今日の分業と協業の発展と国家の対策と資本が個別に障害者を評価したことによって、日本ではいくばくかの雇用が創出されている。社会が変わることによって障害者の雇用環境は部分的に向上する。重要な点はここにこそある。資本主義の発展に応じて雇用が創出され、その環境が整備されれば「生産能力の順位が低位」と目されていた障害者もまた労働力商品としての価値を見いだされる。実はほかのマイノリティの問題もこのことと全く同じことが言えるのであり、さらにはマジョリティであっても資本主義的生産関係、及びその序列から無縁ではあり得ないのである。

「市民社会」の問題点は、障害者問題を含む様々な社会問題の根幹をなしている階級対立を隠蔽してしまう点にある。障害者のみならず誰もが資本主義的な価値観のうちに存在することを確認しなければならない。そして「市民社会」においてもそのヘゲモニーを巡る一切は民主主義の名において暴力的に決せられる。それを逃れたところが「市民社会」などとは全くの幻想に過ぎないのである。

『現代思想』第27巻5号(特集 市民とは誰か)、204頁-211頁、1999年5月。


2009年9月23日水曜日
Webmaster