当事者幻想論

— あるいはマイノリティーの運動における共同幻想の論理 —

豊田 正弘

はじめに

本稿の主要な目的は、本質的に社会全体で取り組まれなければならない問題、あるいは社会の歪みから派生している問題など、元来社会がその責務を負うべき様々な社会問題が、社会全体の問題とされることなく、狭義の当事者性に封じ込められていることの現状と問題点とを明らかにすることである。

問題の本質の社会性にも関わらず、マイノリティと称される社会的少数者の問題の多くが同様の現状にあり、この現状は深化することによって問題の本質を拡散させる傾向にある。例えばそれは障害者、在日韓国・朝鮮人、あるいは外国人、女性、被差別部落などの問題である。これらの問題はいずれも社会的なそれであるにも関わらず、一方では当事者の問題と言われる。あるいは自衛隊演習場・在日米軍基地・原子力発電所・ダム・ごみ処分地などの様々な施設、道路・空港・港湾施設などのインフラ等々といった施設の建設や確保の問題は、そのいずれもが環境保護・国土利用という社会的な見地に立って検討されるべき問題であるのに、しばしばそれらの施設付近住民固有の当事者の問題としてその本質を解体してしまう。

これらの問題は果たして本当に当事者の問題なのか、だとすればそれは誰なのか。本稿の目的に従って論理を展開しつつ、この問いへの回答を準備することとしたい。そのことが現在狭義の当事者性に解体し、個別に封じ込められている社会問題を真に社会全体の問題として浮上させ、同時にその問題に関わる人々の真の当事者性を復権する第一歩であるからである。

尚、本稿ではこうした問題や運動と「当事者」との関係を解明する上で、主に障害者問題とその運動を例に論じることにする。現在私がこの分野の課題に注目して深く関わっていることも理由の一つだが、それ以上にこの分野においてはかつて「障害者解放運動」と呼ばれた運動が現在では「当事者運動」と読み変えられるほどに事態の進行が深刻化していることがその最大の理由である。

社会通念上の当事者概念

任意の社会問題に対する当事者は、その問題と自らとの間に何らかの接点(関係)が存在することをもってその当事者性を立証することができる。例えば地球温暖化問題と一般市民との関係は、彼がその問題の要因となっている温室効果ガスの排出に直接的には無縁の生活を送っていたとしても、その子孫に及ぼす影響を考慮すれば、誰もがこの問題に対する当事者性を有していると言える。現在進行中の脳死臓器移植問題においては、ドナーでもレシピエントでも医療従事者でなくとも、それが人々に対して「死」の概念を問うている以上、生きる者誰もがこの問題の当事者であることはいうまでもない。これらの場合における当事者概念は、当事者自身の自覚にさえ影響されない。問題に対する当事者としての自覚の有無に関わらず、その問題の質が社会的であることによってその問題がすべての当事者に影響を及ぼすことは言うまでもない。同時に無自覚・無関心と言った動向をも含めて、当事者の動向は社会問題に確実に影響を与えるのである。

これらの例に共通しているのはそれが社会問題であるという認知である。任意の問題が社会問題である場合には、このように誰もが問題との間に接点を見いだしうる。従って当事者性を有しているといえるのである。本人の自覚の有無にさえ関わらず、その動向が問題に対して及ぼす影響を考慮すれば、この場合の当事者概念はきわめて広範なものであるといえる。問題の質が社会的であることによって社会の誰もが接点を有し、従って誰もが当事者であると言いうるのである。

訴訟当事者と当事者適格

しかし、問題の質が個別具体的である場合や、あるいは背景に社会問題が横たわっている場合でもその表れが個別的である場合は、誰もが問題との間に接点を有するわけではない。問題の質やその内容が個別的であるほど、当事者概念は制約的である。個人的な友人・知人との関係の問題に誰もが介入できるわけではないし、先の脳死臓器移植問題においてさえ、個別の移植事例における当事者は限定されてしまう。

そのことを端的に示すのが法的概念としての当事者概念である。少なくとも日本の法廷において「正当な当事者」(訴訟当事者)としての「当事者適格」を有するためには、個々の訴訟で訴訟物との具体的・個別的関係からこれが認められなければならない。訴訟の主導権は当事者主義に基づいて当事者に与えられるため、その申し立てなく訴訟の提起・取下げなどが行われない。訴訟当事者は、民事訴訟においては裁判権の行使を求める者とその相手方、刑事訴訟では検察官・被告人・弁護人といったように非常に限定的である。先に述べた社会通念上の当事者概念とは全く違う。

脳死臓器移植問題が社会問題であることは、前述の通り紛れもない事実である。すでにその法案論議や世論が国論を二分する論議となったこともそのことを立証している。人の命をめぐる問題であり、誰もがこの問題とは無縁であり得ない。従ってすべての人々が社会通念上の当事者であるといえる。にも関わらず、その具体的表れとして個別の移植事例が訴訟で争われた場合においては、訴訟上の当事者主義に基づいてその当事者概念は非常に限られた範疇になることがわかる。

また沖縄の軍事施設の使用許可をめぐる訴訟においては、当該施設地の土地所有権を有する地主(反戦地主)と使用者たる国とが、その貸借関係という個別具体的な関係から「正当な当事者」としての「当事者適格」を満たしているといえる。この当事者概念もまた訴訟上の当事者主義に基づいて限られたそれである。しかしその背景には歴史的に様々な場面で大和(本土)の犠牲を強いられてきた「沖縄問題」と、日米関係の軸としてある軍事問題が存在する。これらの問題は単に土地区画の貸借関係やその条件をめぐるものとは根本的に問題の質が違う。社会問題であり、その当事者概念はきわめて広範なものである。しかしその表れは個別具体的であり、その具体的な表れに対しての当事者の範疇もまた限定的なものとならざるを得ないのである。

このように訴訟当事者という当事者概念は、個別具体的な訴訟に従って排他的である。それは訴訟上の当事者主義に基づいて、個々の事例についてその訴訟における個別的・具体的関係によって認められる「当事者適格」が訴訟そのものにとって(提起・取り下げなど)決定的な意味を持っているからに他ならない。任意の訴訟においてその背景になにかしらの社会問題が存在することは決して特別なことではないが、だからといって誰もが訴訟当事者としての当事者適格を認められるわけではない。個別の訴訟事例における当事者の存在は、一般的ではあり得ない。すなわち訴訟当事者の存在は当事者適格に従って、制約的・排他的である必然が存在するといえる。

このように制約的・排他的な当事者概念は訴訟当事者に限ったことではない。ある一定の条件のもとで当事者性を共有する場合の当事者概念は、いつでもその条件に従って制約的であり、排他的である。先に述べた社会問題における当事者概念が広範であったのは、その問題に対する当事者性を誰もが有するものであったからであり、それに対して訴訟当事者の当事者概念が制約的であるのは、訴訟という一定の条件が制約的であることによる。

マスコミによる当事者概念の混乱

従って当事者概念は、その前提とされる条件によってその指し示す広さが異なる。先に示した例に従えば、脳死臓器移植問題や沖縄問題などの場合の当事者概念はその問題の社会性によって広範であり、それらを背景とする個別の訴訟においてはその訴訟の個別性という条件によって制約的であった。しかしこれらの問題を社会問題として取り上げたマスコミ報道は、その問題の具体的表れである個別の事例や事件を単に事実として伝えるにとどまらず、これらの問題に対する市井の人々の意見までが取材対象とされ、新聞社説・投稿などにおいても様々な論議が繰り返された。問題そのものの重要性とそれを訴え続けてきた人々、そしてマスコミの報道によってこれらの問題は文字どおり国論を二分する論議となった。これらの問題が個別具体的なそれぞれの事例の範疇の問題として封じ込められることなく、社会問題として浮上してきたことは、その重要性を訴え続けてきた人々の尽力によるところが大きい。こうした人々の多くはそれがマスコミによって取り上げられるずっと以前からそれが社会問題であるという認識を持っていたし、またそうした質の問題として広く世間に受け入れられることを求めて訴え続けてきたのである。

しかしにもかかわらず、こうした運動の成果として問題が国論を二分する論議となって顕在化するや否や、多くのマスコミはその当事者性について云々し始める。沖縄県民、移植を待つ患者、移植医などがそれぞれの立場からどのような見解を示しているかを「当事者の論理」として世論に訴えかけるのである。先に述べたように当事者概念は一定の条件によっては排他的でさえある。社会問題を社会全体に問いかけていくことがマスコミの使命に数えられるとすれば、このように特定の立場からの意見を「当事者の論理」として世に問うことは、当事者概念を恣意的に狭めていることに他ならない。

こうした社会問題を世に問う作業の中にあっては、当のマスコミすら第三者的な存在ではあり得ない。マスコミがこの問題について関与する際にあっては、その報道姿勢が問われているのである。その意味でマスコミの中立性は幻想でしかない。基地問題が「沖縄の問題」へ、臓器移植問題が専門医と患者のように限られた人たちの問題へと封じ込められていく動向にあってマスコミは、これらを社会問題として取り上げ問題が個別に封じ込められていく傾向に対して警鐘を鳴らす。「基地問題は決して沖縄だけの問題ではありません。」、「移植問題は他人事では済まされません。」等など。全くそのとおり。しかしそう言いながら同時に「それでは当事者である付近の住民のみなさんの意見を」「賛否両論がありますが、当事者である患者さんたちの訴えを」と言った具合に問題に対する当事者概念を覆すのである。ここにはマスコミの当事者概念に対する混乱と恣意的な活用とを見て取ることができる。実はこうした類の報道のあり方は、図らずも当事者と非当事者との存在を前提するマスコミの報道姿勢をあらわにしている。マスコミが非当事者の存在を確信するが故、「当事者の意見」を伝家の宝刀のごとく持ち出し、そのことによって論議に制約を与えているのである。

マスコミはその概念のうちに秘められている「一定の条件」を明確に示さないまま、恣意的に一部の当事者を登場させることによって論議の広がりに対して制約を与えている。これは沈黙の圧力となって論議を排他的なものとし、恣意的な当事者の枠の外におかれた人々(非当事者)のこれへの参入を許さない。

マジョリティ、マイノリティの当事者性

今日のマスコミの報道姿勢にみることのできる曖昧かつ恣意的な当事者概念は、その恣意性によって問題の論議に制約と方向性を与えている。沖縄や臓器移植の問題を社会問題として提起することもできるし、地域的・専門的な問題とすることもできる。沖縄在住者や医療関係者に当事者性があることは事実だが、そのことをもって問題の当事者性とするなら論議は排他的にならざるを得ない。場合によってはあらかじめ論議の方向性さえ、決定づけてしまう。

特に問題の質が社会的性質を色濃く持つ問題においては、安易に当事者を限定することは危険である。問題が具体的に取り上げられることによって、その背景に横たわる、時には根幹をなす社会問題を見えにくくしてしまうからである。問題に対する当事者概念の規定は、それがなされることによって問われている問題の性質を逆規定する。問われている問題が明らかに社会問題である場合においても、問題の当事者を個別具体的に特定することによって、問題の領域さえ限定されてしまうのである。

こうした傾向は社会的少数者・弱者といわれるマイノリティの問題において顕著である。マイノリティの問題は、社会の一部の人々の社会的位置をめぐって派生する問題であるから明らかに社会問題といえる。マイノリティとして存在する以上、その問題はアプリオリには存在し得ない。マイノリティの問題はそれに対峙するマジョリティとの関係の問題でもある。障害者問題・部落問題・在日韓国朝鮮人問題・アイヌ問題・女性問題、等々。実にあげれば枚挙にいとまがないが、こうした類の問題の共通項はそれぞれの問題においていずれも民主主義的諸権利をめぐってマジョリティとマイノリティとの間に社会的格差が形成されているという現実である。

そしてこのような社会的格差(民主主義的諸権利をめぐる社会問題)を解消し得ない社会においては、その矛盾が日常的にマイノリティを襲う。社会からの疎外やマジョリティからの差別的抑圧。その表れは多くの場合具体的で、個別の事象においては社会問題として取り上げられるどころか、隠蔽されてしまうことさえめずらしくない。

マイノリティへの差別的抑圧は、時として権力犯罪を生み出すことさえある。狭山事件や島田事件においては、いずれも法廷において刑事事件として裁かれることとなり、従ってその際の訴訟当事者は検察官と被告人・弁護人である。しかし、そうした刑事事件としての側面よりも両事件においてはその捜査や裁判自体の差別性が問題とされ、えん罪事件という側面からの司法・検察・警察権力の権力犯罪が浮き彫りにされた。狭山事件では部落差別、島田事件では障害者差別によってマイノリティが犯人像としてねつ造され、こうしたえん罪を生み出す現代社会の権力構造が問題とされたのである。

えん罪事件でなくとも殺人事件として裁かれた金嬉老事件においては、事件の凄惨さとともに、事件に至る彼の不遇の環境からその背景にある在日朝鮮人差別の問題が注目される。また殺人罪に問われ先日死刑が執行された永山則夫は、彼の獄中での著作「無知の涙」において、高度経済成長期における貧困と時代から取り残されざるを得なかった無知とが犯罪を生み出したと語っている。さらに現在動向が注目されているオウム真理教事件や神戸連続児童殺害事件においても、教育や環境といった時代背景が問題視されている。

以上の差別や貧困、現在社会の歪みによって生起した問題は、個別の事件が注目され検証されることによってはじめて社会問題との関係が注目されることとなった数少ない例にすぎない。現代社会のかかえる矛盾はマイノリティを社会から疎外し、異端を形成し続ける。かかる現代社会の病巣が切開されるとき、誰もがこれらの問題と無縁ではあり得ない。マイノリティの問題が実は彼らと対峙するマジョリティとの関係の問題であることが、そのことによっていよいよ鮮明になってくるからである。

当事者集団の形成と当事者概念の再定義

誰もが問題とは無縁でないことによって、誰もが当事者性を有していることは否定できない。しかしこれは問題に対する当事者概念であって、問題に対する見解までもが一致を見るという意味ではない。すべての当事者はその問題に対して、それぞれ独自の見解を持っていると考える方が一般的である。しかしその当事者概念をさらに狭めることによって、意識的にそれを集約し、統一をはかることによって集合としての意思を形成することは可能である。たとえば特定する問題が人々をマイノリティとマジョリティとに二分しうる問題である場合、いずれかの条件を前提する事によって、すなわち他方を排除することによって形成される集合は、すでにより狭い当事者概念による当事者性を共有している。つまり、障害者問題を例にあげるとこの問題の当事者のうち、障害者であることを前提とすることによって形成される障害者の集合は、障害者という当事者性を共有しているということである。このことは問題に対する当事者概念の狭小化を意味しており、問題に対しては一部当事者の集合の意思を形成する。

このように新たに形成される集合は狭義に再定義された当事者概念に従って、その当事者性の共有化を容易にしているといえる。このことは当事者概念が絞られることによって個別の当事者が直面する問題が、相互に接近したためである。このことを指して当事者性の共有と言うのなら、それは当事者概念をいっそう狭義に再定義することによっていくらでも可能になる。しかしこれは全くの欺瞞であり、当事者性の共有を口実とする事実上の排外主義であることは間違いない。当事者性の共有のための努力が払われているのではなくて、立場の違いによって当事者の範疇から疎外されているのである。

圧倒的多数の人々にとって狭義の当事者が置かれている立場を共有することは極めて困難である。その事情が具体的になればなるほど、すなわち当事者概念が狭まれば狭まるほど、その度合いは増大する。個別の事情をより具体的かつ詳細に突き詰めて考えるなら、最後的には「本人」という全く個別具体的な当事者概念に突き当たらざるを得ない。最終的な当事者とは本人だけであり、その概念の個別性はだれとの共有をも許さない。さらに本人自身が果たして本人のことをどれだけ知りうるかといった哲学的命題を考慮するとき、当事者でさえも自身のおかれている立場を理解することは困難である。

狭義の当事者が自身の問題に関して唯一絶対の精通者であるというのは幻想である。ましてや彼のみがその問題に関する回答を用意しうるなどと錯覚することは、彼自身の傲慢であり、周囲の無関心のなせるわざである。

再定義された当事者概念の弊害

しかし特定の当事者概念に基づく一部の当事者性の主張は、問題に対する接近であり、一見解を示すものである。従ってそのための当事者集団形成にはそれなりの意味がある。

障害者問題について論じる際においても、当事者全体からあえて障害者だけの集合を形成し、障害者独自の見解を明らかにする試みは決して無意味ではない。しかしこれは障害者という限られた集合の問題への接近であり、社会全体からみれば一部の見解である。問題は社会全体で取り組まれるべき質のものであるから、一部の集団の見解をもって絶対視されるべきではなく、全体の論議がはかられるべきである。しかし障害者問題の当事者を障害者に限定することを前提とした場合には、障害者問題の論議が「障害者の障害者による障害者のための」論議に封じ込められ、社会全体のものへとなることなく自己完結してしまうのである。本来障害者集団の見解は、部分の論議として全体へ提起されるべき質のものであるが、それは障害者問題の当事者概念を社会全体のものとして考えたときに初めて可能な論議である。論議が封じ込められたまま自己完結してしまっては、問題への接近もそこまでと言うことである。

このことは問題の当事者概念がより狭義のものへと再定義されたことによる弊害である。当事者概念は問われている問題の質に応じて定義されるべきであり、障害者問題のような社会問題においてことさらそれが狭められてしまった場合には、論議全体がその範疇に封じ込められてしまうのである。社会全体の問題であるはずの障害者問題が、障害者だけの問題へと解体してしまうと言うことである。そして社会問題が個別の問題へと解体されることによる悲劇は、決して机上の論議ではない。

当事者概念の再定義(限定)と当事者責任

障害者問題が障害者だけの論議に封じ込められる傾向は、問題の解体を意味している。たとえば国土開発と環境保護といった社会問題が一地域の問題へ、先のマイノリティの問題が個別の表れへと矮小化されることと同じである。

たとえばごみ処理施設やダムなどの建設、水源地などの自然環境保護などの問題は、きわめて公共性の高い問題である。この問題における当事者概念をあえて狭義に想定するとしてもごみの排出者や水源地利用者の責任は、当事者責任の問題として考慮されるべきであろう。しかし現実にはひとたびこれらの施設建設の話が持ち上がり、開発と環境保護の問題が政治焦点化するや否や、問題は一気に当該一地域の問題へと矮小化される場合がほとんどである。施設建設の是非をめぐって地域は賛成派と反対派とに二分され、政治抗争が長年にわたって継続されると言った例も少なくない。開発予定地域レベルの問題へと矮小化されるのである。当事者概念はさらに狭められることになる。

しかしごみは遠く離れた町からもやってくるし、水は下流域の人々も利用する場合がほとんどである。このことを考慮せず、一部地域の政治抗争へと集約させる当事者概念の定義は、周辺地域のごみ排出者・水資源利用者の当事者責任を一部の当事者に負わせるものでしかない。障害者問題の当事者を障害者に限定することもこれと同様であり、責任を社会全体で共有することが求められているのである。

深化する解体

障害者問題の当事者を障害者に限定しようとする排外主義思想は、狭義の当事者が自身の問題に関して唯一絶対の精通者であるという幻想とそのことによる狭義の当事者性の共同共有幻想によって形成されている。しかし実際は障害者のみが唯一絶対の精通者ではないし、すべての障害者が障害者独自の同じ価値観を共有しているわけではない。むしろその逆で「障害者問題の当事者は障害者であって、この問題は自ら(彼ら)にしか理解し得ない」とする幻想こそ、障害者と非障害者を貫く共同幻想として存在している。この共同幻想は狭義の当事者の傲慢と周囲の無関心との形成の基礎となり、かかる当事者幻想は問題の本質を社会の全体から部分へと切り縮め、社会全体の当事者責任を曖昧にする。

この傾向はほかのマイノリティの問題においても同様に見ることのできるものである。例えば一九九五年の第四回世界女性会議に向けて大阪で開催されたある女性の集いでは「被差別部落、アイヌ民族、在日韓国・朝鮮人等の女性たちが二重の差別と抑圧の中で抱えている様々な問題」が提起され、論議を深める場として集会が開催されたが、その内容は社会における女性の位置(社会との関係)が問題として取り上げられたのではなく、被差別部落、アイヌ民族、在日韓国・朝鮮人等の問題をそれぞれ女性が語ったにすぎなかった。すなわち世界女性会議に向けて開催されたこの集会は、集会スタッフ・参加者のほとんどが女性で構成されている「マイノリティ・先住民族問題の集会」であり、女性問題が軸とはされなかったのである。女性問題は個別のマイノリティの問題の前に解体し、個別のマイノリティの問題は相互に問題の深刻さを訴え、マイノリティとしての当事者性を強調した。例えば先住民族問題においては以下のような主張がなされた。

…私は日本社会のマイノリティ(政治的少数者)として、社会の底辺に位置することを余儀なくされているが、ここでもそれを意識せずにはおれない状況だった。日本人(和人)の女性たちは、私たちにナイロビのワークショップで、アイヌ民族、あるいは被差別部落の男女間差別を問題提起するよう促すのだった。しかし日本の女性たちは、日本人の男女間のマイノリティであっても、私たちにとっての日本人女性は、あくまでもマジョリティ(支配的多数者)でしかない。…

同実行委員会主催「マイノリティ・先住民族 女性のつどい イン おおさか」において提起された文書: 1995年7月9日

女性問題の持つ社会性を女性固有の問題へと切り縮める思想は、当事者幻想であり、問題の矮小化を結果する。しかしここではさらにそのすり替えが行われ、女性問題の部分である日本人女性の社会的位置がマジョリティとして語られている。女性問題についてはすでに女性のみが当事者性を獲得しているのだが、その中で先住民族問題が提起されるや否や、今度は先住民族の女性のみが問題についての当事者性を得ることになる。このように当事者幻想による排外主義は、問題の範疇に伴って当事者概念をより狭小化し、問題の解体を深化する。

障害者問題においては、障害の別(種別や度合い)・生育環境や家族環境、地域社会など個人のおかれている条件によって、その当事者概念は全く個別に解体する。障害者相互の当事者性の共有は、障害者にしか理解不能の、障害者であれば必ず理解されるであろう「何か」によってかろうじて支えられてはいるが、それは幻想にすぎない。障害者・非障害者の間に理解の差を示すものがあるとすればそれは経験かもしれないが、経験が個別であることは言うまでもないし、同じ経験から同じ理解が獲得されるわけでもない。

しかし障害者問題の当事者概念を障害者に切り縮める排外主義は、さらにその狭義の当事者概念をよりいっそうの解体へと深化せしめるのである。精神障害・知的障害・内部疾患障害・身体障害などの分類はそれぞれにまた狭義の当事者概念を形成する。その障害の度合いによっても違う。それらは個別に家庭環境・地域社会との結びつきを問題として抱え、さらに細分化された別の当事者概念によって当事者性を共有する。さらに性別・就学等による生活実態、思想的には障害に対する考え方によっても分岐はさらに進行する。社会問題であるはずの障害者問題は、その当事者概念の排外主義的深化を遂げ、やがて全くの個別事情にまで解体する。そしてついには彼以外の誰もがその問題に関心を寄せることすらできなくなってしまうのである。

障害者解放運動と当事者運動

マイノリティの社会的位置の民主主義的復権を求める解放運動は、それが社会との関係を抜きに存在し得ないことからマイノリティだけの課題としては自己完結し得ない。例えば黒人解放運動の先駆となったのは、黒人の指導者であったが、その運動は後に公民権運動に発展し、人種の壁を乗り越えたものとなった。部落解放運動においてもその先駆けは水平社結成による被差別部落大衆の運動として組織されたが、今日その運動は国民的課題として位置づけられている。排外主義的な当事者幻想の克服による運動の発展の代表的な例である。これらを見るなら人種差別や部落差別の問題を差別されている側の問題とすることが当事者幻想であり、そのことによってこれら社会問題が部分の問題として位置づけられること自体が限界であり、運動を閉鎖的に自己完結させる直接的な要因となっていることがわかる。

このような歴史に学ぶなら七〇年代に解放運動としての発展を遂げた障害者運動が、今日「当事者運動」として閉鎖的に組織されている現状は当事者幻想による呪縛そのものであり、それは運動に分散と混迷とをもたらし、理論的には明らかに後退であるといえる。先駆的な障害者によって開始された自然発生的な運動は、民主主義的諸権利を求める行動であり、自らの被抑圧的な社会的位置に対する抗議であった。自身の社会的位置を自覚した彼らが、当然問題に対する当事者性をも自覚していたことは否定し得ない。この状況は現在も全く同じである。しかし自然発生的な運動の発展は、やがて彼らの支持者を結集することになる。支持者の中には障害者だけでなく、そうでなくとも職場・地域・知人友人関係などで障害者との関係が日常的な人、また彼らの行動によって触発された人々の存在があった。一部の障害者と支持者という関係は、やがて障害者解放運動という大きな流れを生み出し、ともに障害者問題に取り組む者として合流していくこととなる。そのときここに結集した人々の間には、問題に対する当事者性の共有が形成されていたはずである。

しかし実際はその運動の中にさえ、問題に対する考え方の相違が存在することをそれぞれは思い知らされることになる。障害者と非障害者の相互理解はそれほど容易なことではなかった。問題に対する当事者性の共有がなされていても、それぞれの見解に相違が存在することは当然であって、当事者性の共有をもって見解の一致を前提することこそ当事者幻想である。また特に医療関係者や新左翼系活動家などの接近は、時として臨床研究やフラクション形成を目的としており、障害者の彼らに対する信頼をことごとく失墜させた。解放運動とは別の目的を持って接近してきた侵入者の多くが障害者でなかったことや、障害者と非障害者の障害者問題との対峙関係の相違が当事者性の問題として捉えられたことは、過渡期を向かえていた運動の発展にとって最大の不幸であった。

障害者問題は障害者自身にとっての民主主義的諸権利をめぐる問題であり、彼の社会的位置を決定づけている問題である。しかしそれ以前にこれが現代社会の民主主義にとって重要な位置を占める問題であることは言うまでもなく、社会全体が当事者責任を負うべきであることはいまさら言うまでもない。障害者問題を一部の当事者に委ねるのではなく、社会全体で共有することが問われたのである。

しかし過渡期における不幸は、発展の途上にあった運動に当事者幻想をもたらし、それは排外主義を持ち込んだ。運動の内部においてさえ背信や疎外を経験してきた障害者は、当事者幻想によって再度結束を固め、その城壁を「当事者運動」という排外主義で塗り固めた。非障害者は原則的に城内立入禁止であるかもしくは制限が加えられ、城内の議会においては多くの場合決定権を持たず、発言に際しても同様に何らかの制限が加えられた。そのかわり障害者は、この城壁の内部で裏切られることのない(はずの)幻想にひたることができた。城内平和は彼に「当事者」という権威を約束したのである。

当事者運動の意義と限界

当事者運動の最大の意義は障害者に権威を与えたことであり、限界もまたそのことによる。

障害者には彼らが障害者問題を社会的に浮上させる上において、自らこの問題の当事者性を主張し、当事者としての権威を復権する必要があった。この権威の復権は障害者がそれまでの被抑圧的位置から自らを解放する第一歩であるからである。障害者に対して抑圧的な社会は障害者の社会参加に対しても抑圧的である。障害者の社会問題に対する当事者性は、その存在が同一の社会の構成要因であることから認められるべきであるが、障害者の社会における被抑圧的位置はそのことすら困難にしていたし、今日においてもなおそうである。但しここで言う当事者という権威とは、社会参加という民主主義的諸権利の部分にすぎず、障害者の被抑圧的位置は当事者の部分としてさえ認められていなかったということである。

障害者がその社会的位置を自覚し自らの問題に対する当事者性を主張することとなる第一歩は、多くのマイノリティの運動がそうであったように障害者問題に対する自身の見解を「当事者の声」としてあげることであった。この問題において主導権を握っていたのは行政であり、医療であり、彼らはその対象にすぎなかった。それまでの彼らはこの問題においても当事者でさえなかったのである。彼らが障害者問題における当事者として声を上げ、行動を起こし始めたことは彼らが当事者の部分を構成していることから、全く正しいし、時代の要請からして先駆的でさえあった。この意義は今日においても全く失われてはいない。障害者はようやく自己を社会の隷属から解放し始めた。自身の社会的位置及び存在をめぐって派生する様々な問題が障害者問題という社会問題であること、そして彼ら自身もまた当事者であることを自覚したのである。そのことを自覚した彼らは障害者問題における当事者性という権威を獲得し始めた。

当事者性が一種の権威であることは、その概念が排他的であることからも説明しうる。それは社会的・思想的威力をもって自らとほかの間に一線を画し、優位性を発揮する。こうした意味からもそれまで自ら語り得なかった問題について、障害者が権威を獲得したこと、すなわち問題の当事者としての権威の復権をなし得たことは、障害者だけでなく社会全体にとって歓迎すべき大きな出来事であった。社会問題として問題の共有化が一歩前進したのである。問題に対する当事者性を権威のひとつと考えるなら、本来社会問題においては誰もが権威を獲得すべきなのである。

従って当然のことながら障害者のみがその権威を許されていると考えることは、全くの幻想にすぎない。しかし今日の障害者運動の歪曲は、それが当事者運動と呼ばれるまでに危機的な深化を遂げており、多くの献身的なこの運動の担い手たちはこの誤謬に全く無自覚である。障害者がようやく獲得し得た権威は、その運動において全く排外主義的に活用されている。「障害当事者」なる造語まで生み出され、運動における絶対的位置がつくりあげられている。障害者以外の支持者もまた、当事者幻想が作り上げた当事者運動主義とも言いうる排外主義イデオロギーによって組織化され、自らの位置を二義的な位置においている。彼らが当事者と言うとき、それは基本的に障害者のみを指しており、そのことからも当事者概念が狭く捉えられていること、当事者性は共有されていないことがわかる。障害者の当事者としての権威の復権は、当事者運動主義という排外主義を生み出すことによって権威主義へと失墜してしまったのである。

個としての当事者見解

前提されているのは誰もが当事者足り得なければならないし、誰もが当事者責任を有しているという現実である。このことはたとえ障害者解放運動が当事者運動へと変質を遂げた今なお、否定されるものではない。

群としての当事者見解を考えるとき、個としてのそれがしばしば置き去りにされてしまうことの危険を集合はあらかじめ知っておくべきである。集合の結束に致命的な影響を及ぼしかねないからである。しかし当事者幻想によって組織された集合は、同胞としての見解の一致すら前提している場合がめずらしくない。それが例えば障害者解放といった志や共通の趣味など目的を軸とする集合である場合においては、その結集軸が確固たる前提としての意味を持ちうるのだが、当事者幻想による組織化の場合は前提とされるべき結集軸が存在していない。このことは特に運動の組織化において致命的である。すなわち今日の「当事者運動」においては、当事者幻想による組織化によってその運動全体を貫く結集軸が鮮明でないため、個別の意見を収集することができたとしてもそれを集合としての見解に組織化することはできないのである。

集合としての見解と個としての見解が対立することは、その限りで問題ではない。むしろその逆で対立が当事者幻想によってかき消されてしまうこと、個別の当事者性が集合の前に奪い去られてしまうことが問題なのである。

簡単に説明するためにここでは「同性介護」問題を一例として挙げることにする。当事者運動において障害者の介護を同性に委ねるべきだとする要求は、決して特別なものではない。当事者運動は同性による介護を重要な課題の一つとして掲げている。それは集合としてのそれであるばかりではなく、個別の障害者の要求でもある。しかしそれは必ずしも一枚岩の要求ではなく、介護者の性別を問わない障害者や異性による介護を求める人も少なくない。そうした人たちの「当事者の声」は、表面的には当事者幻想の前に解体を余儀なくされている。

同性介護を求める声の主は多くの場合女性である。特に重度障害者の場合、介護の内容によっては入浴・排泄・衣服の着脱など、異性には見られたくない場面が少なくない。彼女らが同性(女性)による介護を要求することは当然である。同じ場面に遭遇するはずの男性の要介護者は、女性の障害者ほどこの問題に関してデリケートではない。まだまだ看護労働が女性によって担われている現状にあっては、異性(女性)による看護・介護の方が一般的であり、彼らはそのことに慣れていると考える方が自然である。だとすればここで求められているのは、同性介護ではなく女性による介護である。

また同性介護を求める声の中には、性犯罪による被害の防止をあげるものもある。障害者に対する性犯罪が横行している現状にあっては、犯罪予防措置としてのこの要求は当然である。しかしこのことは同時に障害者の身近な理解者の一人である介護者の存在を、同性にしか認めないということでもある。異性に限らず、人との接触の機会を持つということは交際範囲の拡大に伴って、様々なリスクを背負い込む行為でもある。その意味でいえば介護者の前で無防備な自己の存在は、リスクを背負い込むことを余儀なくされている障害者であり、そのことをも含めて他人との交通を実現するものでもある。すなわち両者の間に介護という別の目的がなくとも性犯罪は成立するし、それは障害者に限ったことではない。唯一完全な防止策としては誰とも接触しないことがあげられるが、これは現実的ではない。ただいえることは異性との接触を断つことで問題の解決がなしうるかのような発想は、ヘテロセクシャルに偏った考えといえるし、介護者を通じて社会と接触する可能性をことさら同性という枠に絞り込むことでもある。何よりも介護を通じて異性との出会いにめぐり合い、幸せを獲得した人々は「同性介護」というこの偏った要求をナンセンスと笑うに違いない。

以降詳細な展開は本稿の目的ではないので割愛するが、いずれにせよ問われている介護の質が性別によるものでないことはいうまでもない。介護者の性別を問わず、安心できる介護が問われているのである。介護・看護労働が女性偏重であるという現実をもふまえながら、介護の内容をめぐる問題として問題が提起されるべきである。もとよりそうした質の論議として考えるなら、介護者は交際相手としての条件が第一義的に優先されるものではないことは今更いうまでもない。このことがもし考慮されるとしたら、それは障害者が介護人を選ぶ際の全く個人的な条件として考えられるべきである。

このように考えるなら「同性介護」という要求がいかに一面的な、上滑りな要求であるかがはっきりとする。介護の質こそが問われているのであって、誰も同性を求めているのではない。介護に対してこそ個別具体的な当事者の条件が問われているはずなのに、その要求の個別性は「当事者運動」の利害に丸め込まれてしまうことによって、かくも見事に解体されてしまうのである。個としての当事者性は、当事者幻想の前に解体する。

障害個性論

個としての当事者性を考える上で障害を個性と考える「障害個性」論は注目しておく必要がある。「障害者は決して特別な存在ではない」という考えから生まれたものであろうこれは、問題の本質を「個性」に解体する。障害の有無によらず個人の存在は個別的であるから、自身は自身以外ではあり得ないことをもってすべての人は個性的であり、障害者もまたその意味において非障害者と区別される存在ではあり得ない。このことを「障害者は決して特別な存在ではない」というとすれば、その限りでこれは当然であると言える。九五年末に刊行された「平成7年版 障害者白書 バリアフリー社会をめざして」(総理府編)は、当時の障害者運動の動向に依拠しながら、「差別と偏見」「同情」の障害者観を批判しつつ、「共生」の考えをさらに一歩進めたものとしてこれを提唱している。「「共生」の考えを更に一歩進めたのが、障害者自身や障害者に理解の深い人達の間で広まってきている「障害は個性」という障害者観である。」というのがそれである。

ここではその「個性」が、「我々の中には、気の強い人もいれば弱い人もいる、記憶力のいい人もいれば忘れっぽい人もいる、歌の上手な人もいれば下手な人もいる。これはそれぞれの人の個性、持ち味であって、それで世の中の人を2つに分けたりはしない。同じように障害も各人がもっている個性の1つと捉えると、障害のある人とない人といった1つの尺度で世の中を二分する必要はなくなる。」といった内容のものとして説明されており、「そうなればことさらに社会への統合などと言わなくても、一緒に楽しんだり、喧嘩をしたり、困っているときは、お互いに助け合い、支え合う普通の人間関係を築ける社会になるであろうというものである。」と予言する。すなわち、「障害を個性と捉えると世の中を二分する必要がなくなり、普通の人間関係を築ける社会になる」というのである。これでは現実の見方を変えれば、現実そのものが変わるといっているに等しい。全くの観念論である。これによって障害者問題が社会問題として存在する物質的根拠は見失われ、あたかも障害を特別視する障害者観にのみその根拠があるかのようである。こうした精神主義は次のようなまことにありがたくもおめでたいまじないをもって、人々に意識と社会の改革を促している。

障害者を特別視する障害者観を払拭するためには、障害というものの正しい知識を普及する広報活動ももちろん大切であるが、社会のいろいろな場面に種々の障害のある人がいるのが当たり前という状況にする必要がある。「街になれる、街がなれる」という味わい深い標語がある。障害者はどんどん街に出て街になれる。そのことによって街は、街に住む人々の意識も含め、障害者がいることを当然の前提とした社会になっていくという趣旨である。

「平成7年版 障害者白書 バリアフリー社会をめざして」(総理府編)

求められている「社会のいろいろな場面に種々の障害のある人がいるのが当たり前という状況」を作り出すために、これまで多くの人々によって努力が積み重ねられている。またそうでなくとも障害者は、その必要に応じて「街に出て街になれる」ことを強いられてきた。そして確かに積み重ねられた努力の分だけ障害者は街(社会)になれる。しかし障害者にとってそれは多くの場合、自己を拒絶し疎外する社会の経験であり、そこで生き抜く術を獲得する作業である。車椅子で街にでる障害者は街に出る度に街を観察し、目的地にたどり着くための独自のルートを開拓する。経験や情報の交換などによって街の様子に精通しており、段差や人混みを避け、エレベータや傾斜の少ないスロープを選んで進むため、時には驚くほどの迂回を強いられる。開拓された独自のルートは経験とともに仲間の障害者に伝えられ、やがてそのルートは地元の障害者の知るところとなり、情報は共有される。こうしたルートが人知れず「けもの道」と呼ばれているように聞いたことがあるが、障害者が現代社会で生き抜くことは文字どおりこうした「けもの道」に轍を刻み続けるがごとき様相を呈しているのである。このことは社会が未だ「障害者がいることを当然の前提とした社会」でないことを雄弁に物語っている。

障害者は生きていくためにこれらの術を獲得する必要に日々迫られているが、その努力が個々に完結し、社会問題とならない限りにおいては問題はいつまでたっても全体化されない。「障害者がいることを当然の前提とした社会」を望みながらも、ただいま現在の社会に適応することを強要され続けているのが現状である。障害者が「街になれる」必要は日々切迫しており、一方「街がなれる」ための条件は障害者個人の街への適応の努力によって日々二義的なものへと追いやられるのである。何と言うことか。障害者はその「個性」によって街の問題を一人で背負わされ、社会は「障害者がいることを当然の前提とした社会」の街づくりから免罪されているのである。

こうした障害個性論は障害者問題を「個性」に解体し、社会責任を免罪する。にも関わらず、「当事者運動」がこれに対して有効に批判し得ていないという現実は注目すべきである。「当事者運動」が恣意的な当事者による当事者性の共有という幻想によって形成されているのと同じように、個性論は「障害」を共通の個性として共有するという言わば同根の論理だからである。今一度整理するなら、障害者問題において障害者のみを当事者と限定することは誤りであるし、障害が個別具体的であることから「障害者のみに理解しうる何か」を前提条件に、すべての障害者が共有しうると考えるのも幻想である。障害者にのみ共有される当事者性は、個別の障害の事情によってそれぞれ排他的であるはずだからである。同様に個別の障害者の障害を「個性」として考えるとすれば、その「個性」を障害者が共有し得るはずもない。障害者という集合を持ち出して「個性」までも共有しうると考えるのは、先の当事者幻想と同じ論理である。「当事者運動」が障害個性論を批判し得ない根拠は、偶然そのイデオローグが同一であるということだけではない。障害個性論もまた当事者幻想の現れの一つにすぎないのである。

当事者幻想と主体性の確立

本稿ではこれまで当事者幻想がいかに問題の本質と社会的責任を曖昧にし、問題に対する当事者概念を狭めてきたかについて論じてきた。そのことはほとんどのマイノリティの運動にとって止揚されねばならない限界の一つであるし、今日の障害者の運動においては最も重要な課題として取り上げられるべきである。自らを「障害当事者」と呼び、解放運動を当事者幻想の産物である「当事者運動」の枠内へと切り縮める傾向は、本来の意味での当事者責任(社会全体の責任)を曖昧にし、結果として問題を個別のものへと解体している。

このことが明らかとなった今、積極的な意味において問題を切開し運動を牽引する主体を障害者という資格にのみ限定して求めることは、運動の狭小化であることをも意味する。障害者問題とは障害者固有の問題として考えられるべきでない。障害者と非障害者というマイノリティとマジョリティの関係の問題として位置づけるときにおいては、少なくともその双方が当事者として同じテーブルにつく必要があるし、社会全体の問題として考えるとき、その変革の主体は障害者ばかりに求められるべきではない。それは共同の作業としてなしうるべきものだからである。

またしばしば誤解されているように障害者と非障害者との関係を非和解的なプロレタリアートとブルジョアジーの対峙関係と混同し、この作業がプロレタリアートの階級闘争のように障害者によってしかなし得ないと考えるのは誤りである。障害者解放運動は革命的ではあったにしても革命ではないし、マイノリティとマジョリティの対峙関係も現代社会における民主主義をめぐる問題の一つにすぎない。しかし現実の「当事者運動」においてはその当事者概念の内に幻想的に非和解性と優位性とを内包しており、そのことがしばしば社会における障害者の位置を孤立させている。実際、「障害者の問題は障害者にしか理解し得ない」と言う主張は、それが障害者によってなされることによって問題に対する理解を深めようとする非障害者の主体性を否定するばかりか、それへの反論すら許さない。彼らは「問題を理解する当事者」からの「理解し得ない者」という烙印によって、同じテーブルにつくことすら許されない。しかし障害者は、彼らに対して問題と運動への理解を求めるのである。この大いなる矛盾。「理解し得ない」はずの彼らに求められている「理解」とは何か。主体性を認められない彼らにとって、理解し得ないことを前提されている彼らにとっての「理解」とは、事実上の従属を意味しているのではないか。障害者こそ当事者であり問題の精通者であるという幻想、そこからくる非障害者に対する無理解という烙印は「当事者運動」への従属を強要する。まさに「障害者の障害者による障害者のための」運動であり、その閉鎖性によって深化と拡大は行きづまらざるを得ない。できる限り多くの人々によって図られねばならない問題の共有化は、この幻想がもたらす影響によってますますそれを困難なものにしている。

障害者問題とは現代社会の生産関係とその民主主義が生み出した大いなる矛盾の一つである。であればこそ、私たちは現代を生きる者として問題の当事者性を障害(者)に封じ込めてはならない。当事者幻想によって閉ざされる禁忌のふたをこじ開け、誰もが問題の当事者であることを人々の主体性に呼びかけて、共にこの大いなる矛盾と格闘し考えることが問われているのである。

『現代思想』第26巻2号(特集 身体障害者)、100頁‐113頁、1998年2月。


2009年9月23日水曜日
Webmaster