「障害個性」論批判

豊田 正弘

はじめに

96.6.6日付朝日新聞「論壇」欄に「障害は個性と考えたい」(小池将文)という一文が掲載されていた。この一文は、今日の障害者運動の部分を形成している潮流に依拠している点において、注目に値する。特に彼が総理府障害者施策推進本部担当室長という職にあって、九五年末に刊行された「平成7年版 障害者白書 バリアフリー社会をめざして」(総理府編)に直接かかわっていたことに考慮すれば、「障害は個性」とする考え方は、もはや一部の障害者運動のそれにとどまらず、日本の政策理念に反映されつつあると言える。実際この考え方は「『共生』の考えを更に一歩進めた…障害者観」として白書に記述されている。この白書に記述に対しては、当然障害者からも賛否両論の評価があったようで、彼の「論壇」でのこの文章はそれにこたえたものとなっている。以下、まず「論壇」から政策(白書)に反映された小池氏(以下、敬称略)の考えをみていくことにしたい。以下、文中当該箇所の白書の記述については、本稿巻末に掲載した。

「障害は個性と考えたい」小池政文

昨年暮れに刊行された障害者白書の記述に対し、「障害は果たして個性なのか」という批判が新聞の投書欄にでていました。障害があることを個性というきれいごとの表現で、歌が上手、下手といったことと一緒にしてほしくないという趣旨です。私の部署にも視覚障害者の方から数回にわたり、「障害は個性」などと一部の人が言っていることを閣議決定を経る政府の白書で記述するのは問題である、との電話をいただきました。欧米でも日本の学会でもそんなことを唱えている人はいないし、障害という概念と個性という概念は論理的に結びつかない。全盲などの重度の障害者が、厳しい状況の中に置かれているのに、障害者に対する公的サービスを不要とするような帰結を導く障害者観がまかり通るのは見逃せない、というものでした。

昨年の障害者白書では、「バリアフリー社会を目指して」を副題に、障害者を取り巻く四つの障壁(物理的、制度的、文化情報面、意識上の障壁)の除去をテーマにして、これまでの国や地方自治体の取り組み、今後の課題、展望などを記述しました。その中で障害者を特別扱いしない障害者観の一例として「障害は個性」という考え方・見方を紹介した「意識上の障壁」の個所は、何人かの方から良くも悪くも「白書らしくない」と批評された部分でした。

私自身も含め多くの人に「障害はない方がいい」「障害があるのは不幸」とのぬぐいがたい思い込みがあり、それが障害者を差別したり過度に美談調で賛美したりと特別視する誘因になっています。論理的な表現ではありませんが、障害をこれまでにない前向きの視点からとらえた「障害は個性」の発想には、そんな思いを乗り越える可能性がある、と思いました。「さをり織り」の創始者城みさをさんは、知的障害者の織る作品の素晴らしさに感銘して全国各地への普及を進め、今では海外でも広く取り入れられています。

常識や決まり切ったルールにとらわれない作品は芸術性も高く、彼女は「障害は個性というより才能」とまで言っています。また、「『ささえあい』の人間学」(法蔵館刊)は、「障害は個性である」との主張には、障害者と健常者という二分法の下で「障害は克服すべきもの」「苦しくとも障害者はリハビリに励むべき」との一面的な障害者観を見直す意義があると指摘しています。

もともとこの言葉は、我が国の障害者運動の中で、障害があっても人間として誇りを持って生きていきたい、という障害者の切実な願いの中から生まれた主張であり、白書に取り上げることへの迷いもありました。しかし、ともすればマイナスイメージで語られることの多い「障害」について、プラス思考のしなやかな発想があることを紹介したい気持ちの方が勝りました。重度障害者や重症の障害児を抱えている家族がこの社会で暮らしていくのはまだ大変なことであり、そんな現実を前にして「障害は個性」などと言うことに何の意味もないとの意見があるのも無理からぬものと思います。

障害のある人が普通に暮らせる社会にしていくため、政府は昨年暮れに「障害者プラン」を策定しましたが、そのような社会の実現に向けて公的セクターの取り組むべき課題は山積しています。障害者観の問題は、各人の心・意識にかかわるものであり、白書の記述によって簡単に変わるとは思いません。ましてや基本的人権を保障している憲法の下では、「障害は個性」という見方一つで公的部門の責務が軽減されるということは決してありません。

一方で「障害は個性」と主張する障害者がいて、他方でその意見に同調できない障害者がいます。それぞれの主張はうまくかみ合う議論ではなく、どちらが正しいというものでもありません。高齢化が進み慢性疾患が主流の疾病構造の今日、何らかの障害のある人はいや応なく増え、ひとごとでは済まされない時代になっています。障害を、ない方がいいものと否定的にとらえるだけではなく、前向きに受け入れる発想も必要ではないでしょうか。行政担当者をはじめ多くの人がこの両論の意味するところを考えることが、障害者を特別視する社会の意識を変えていく契機になるのでは、と考えます。

(総理府障害者施策推進本部担当室長)

96.6.6日付朝日新聞「論壇」欄掲載)

白書を批判した新聞投書との関連において

白書は「四つの障害者観」を挙げ、それを「古くて初歩的」とするそれから、もっとも進歩的なそれまでを段階的に評価している。そして白書が「今日普通の考え方として」評価する「共生」の障害者観を「更に一歩すすめた」として評価しているのが「障害は個性」という障害者観である。小池が「論壇」において批判覚悟でおずおずと、しかし一部の障害者の主張を借りて自らの責任を回避しつつ、臆面もなく主張しているのは、どうやら新聞の投書欄に掲載された白書への批判に応えるためのようである。

小池の文章によれば白書に対する批判は、「障害は個性か」という問題を軸として、投書を含めて「障害があることを個性というきれいごとの表現で、歌が上手、下手といったことと一緒にしてほしくないという趣旨」のものである。「歌が上手、下手といったこと」という比喩は白書を読んでそう感じた投書の主のおおげさな表現かと思ってしまいそうだがそうではない。白書には確かに以下のように記されている。

「共生」の考えを更に一歩進めたのが、障害者自身や障害者に理解の深い人達の間で広まってきている「障害は個性」という障害者観である。我々の中には、気の強い人もいれば弱い人もいる、記憶力のいい人もいれば忘れっぽい人もいる、歌の上手な人もいれば下手な人もいる。これはそれぞれの人の個性、持ち味であって、それで世の中の人を2つに分けたりはしない。同じように障害も各人がもっている個性の1つと捉えると、障害のある人とない人といった1つの尺度で世の中を二分する必要はなくなる。そうなればことさらに社会への統合などと言わなくても、一緒に楽しんだり、喧嘩をしたり、困っているときは、お互いに助け合い、支え合う普通の人間関係を築ける社会になるであろうというものである。

「平成7年版 障害者白書 バリアフリー社会をめざして」(総理府編)

白書によればこれがもっとも進歩的な障害者観であり、小池もまたそのことを認識したうえで持論を展開する。このことについては後で述べる。

批判の二つめは、一部の者の主張を白書で記述することの是非についてである。要するに政策に特別の考え方が何の合理的根拠もなしに導入されると言うことだが、彼はこの批判を「白書らしさ」の問題にすり替え、その観点からの論評としてかわしている。しかもその際、この考え方を「もともとこの言葉は、我が国の障害者運動の中で、障害があっても人間として誇りを持って生きていきたい、という障害者の切実な願いの中から生まれた主張」として紹介することによって、その根拠が「障害者の切実な願い」に根ざしているものであるとして「白書らしくない」とする批判をもかわしている。仮に特別な論理であったとしても、「障害者の切実な願い」でありさえすればその方が優先されると言うことか。ここだけ見れば障害者にとってはまことに有利な考え方だが、ところでこうして「切実な願いから生まれた」といった経緯で、しかも「紹介したい気持ち」という恣意的な理由だけで政策に反映されるという構造こそ、良くも悪くも障害者を特別視するものではないだろうか。白書の中で「障害者を特別視する障害者観を払拭するためには…」とその方法を模索しているにもかかわらず、小池は論理矛盾に陥っている。「重度障害者や重症の障害児を抱えている家族がこの社会で暮らしていくのはまだ大変なことであり、そんな現実を前にして『障害は個性』などと言うことに何の意味もないとの意見」こそ優れて現実を直視するものであり、そうした現実を生み出している社会を変えることこそ、「切実な願い」であるはずである。後で述べるが、少なくとも「障害は個性」とする考え方は誤っていないとしても、現実離れするほどに時期尚早かもしくは稚拙である。当然、今回の白書における評価の仕方は誤りである。

次に障害という概念と個性という概念が論理的に結びつくかという問題。この問題については結びつく可能性の問題として別に述べる。ただし、小池の主張や白書で評価されているような「障害」の概念では、これは未来永劫に「個性」となり得ないし、また「障害者に対する公的サービスを不要とするような帰結を導く」ことは火を見るよりも明らかである。

「障害」の定義上の問題における「障害個性」論の混乱

小池「障害個性」論の誤謬はその「障害」の根拠を障害者に負わそうとしている点にこそある。仮に「障害」の定義をWHOの「損傷や機能不全が社会的支障をもたらす」というものをもってなすとすれば、その根拠は障害者のおかれている個別具体的な状況と社会環境との整合性の問題であるはずである。

即ち一般的にそう呼ばれている「障害」者の「障害」とは、例えば「障害物」のように一般的に使用されているその語彙とは全く異なる意味を有しているということである。障害者と障害物という二つの言辞が「者」と「物」の相違において、指し示す対象と「障害」との関係が違ってくる根拠は、「障害」という言辞が両者の関係において同じ関係にないと言う点にこそある。言うまでもなく前者は「障害のある」者であり後者は「障害となる」物である。かつて、あるいは今日も一部の先進的な活動家などの間で障害者という表記が「障害」者と括弧付きでなされている根拠は、一般的に用いられているその用語が、「障害」との関係において正確な意味を表していないということによる。

だとすれば少なくとも先のWHOの定義付けの方が、障害者にとっての日常生活などにおける「障害」を指し示す上でその語彙に忠実である。それによれば、障害者にとっての直接的な「損傷や機能不全」すら障害としてはいない。それらが社会的支障をもたらすことをもって障害としているのである。「損傷や機能不全」のみが障害者問題の全てであれば、これは医療の領域の問題と言うことになろう。しかし、障害者が障害者として生き続けるための最大の問題、障害者問題とは自らが置かれている障害者としての状況と社会環境との格差にこそある。

障害は個性ではない。障害者にとっての障害とは自らが内包するものではないからである。障害者にとっての具体的な障害とは、設備・施設は言うに及ばず、教育・文化・法体系に至る健常者専用に整備された一切である。顕著な例を挙げれば、病院や障害者施設などの限られた空間においては、一般的にその外との比較において障害者にとっての具体的な障害は軽減される。このことは単に設備上の問題だけではない。その限られた空間そのものが健常者専用を前提としていないことによる。このことをもって彼の個性が一瞬のうちに変わったと言いうるであろうか。また、そうであれば多くの障害者にとって使いやすい設備は多くの障害者の個性を同時に一変させるということになる。そんなことはありえない。早い話がスロープは魔法ではない。それが敷設されたり取り壊されたりしたからと言って、障害者の個性には影響しない。障害は障害である。障害が個性という発想は、障害が個人に内包されていることを前提しない限り整合性を保ち得ない。先に「障害個性」論の誤謬について、その「障害」の根拠を障害者に負わそうとしている点にあると言ったのは、単純に言えば以上のような内容を理由としている。

従って障害は誰にとっても障害である。ただ健常者専用に整備されている社会環境においては、前提として健常者群にとっての決定的な障害は存在しないように、すぐさま除去されるように形成されているのに対して、障害者にとってのそれは前提とされることなく補完的にしか整備されず、多くの場合には放置されているという決定的な相違が存在するだけのことである。

にもかかわらず障害者の「障害」だけを特別に扱い、これを「個性」などとする「障害個性」論は、小池の主張するように一歩進んだ障害者観どころか、社会的にはその問題の現実を見ようとしないもっとも後退した考え方ということができる。「我々の中には、気の強い人もいれば弱い人もいる、記憶力のいい人もいれば忘れっぽい人もいる、歌の上手な人もいれば下手な人もいる。これはそれぞれの人の個性、持ち味であって、それで世の中の人を2つに分けたりはしない。」しかし、そのことによって社会は世の中の人を二つに分けてきたのである。言うまでもなく、健常者専用につくられた社会に適応し得る人の群と、何かの助けを借りなければ生きていけない人の群とに、である。「同じように障害も各人がもっている個性の1つと捉えると、障害のある人とない人といった1つの尺度で世の中を二分する必要はなくなる。」同じように障害以外でも、各人がもっている個性の一つなどと考えられては困る問題はたくさんある。国籍、性別、民族、人種、宗教、出身地等々。今日の社会が抱えている大きな課題のいくつかはこれらのように一つの尺度で世の中を、時として人間の価値すらも二分したり、序列に組み込んだりしている。障害者問題も含めてこれらの一切を「個性」とするなら、一人単位にまで細分化された序列構造が完成するだけのことである。「そうなればことさらに社会への統合などと言わなくても、一緒に楽しんだり、喧嘩をしたり、困っているときは、お互いに助け合い、支え合う普通の人間関係を築ける社会になるであろうというものである。」さて、細分化された人間の序列構造がそれぞれの「個性」として社会的に容認されたとき、果たしてそれが「普通の人間関係を築ける社会」といいうるであろうか。それはあらゆる差別の存在を「個性」として容認し、序列構造の一つの基準とする。今日の社会ように明らかに健常者優位の社会において、障害者問題における序列構造は比較的単純である。より健常者に近いこと、より障害の程度が軽いことである。何のことはない、「障害個性」論における「障害」とは今日の社会における序列のことにすぎない。そしてそれを「個性」に読み変えることによって、障害者問題における差別的序列構造を合理化するものである。

繰り返し言うが障害は障害である。「一緒に楽しんだり、喧嘩をしたり、困っているときは、お互いに助け合い、支え合う普通の人間関係を築ける社会」の建設は、今日の社会においてその障害となっているあれこれを除去する努力抜きにはあり得ない。それは例えば精神的な、物理的な、あるいは制度上の、社会のあらゆる問題における障害者の自然な姿での存在を当たり前のこととして受容する環境である。障害は障害者の自由を阻害している。障害者は、健常者であっても障害者であってもとにかく他の誰かとの人間関係を形成しようとするとき、あるいはその以前から特別の努力を強いられる。彼に向けられる好奇のまなざし、教育課程に顕著な幼いころからの「特別」な環境、「障害個性」論によればこれらは彼の「個性」に起因する。しかし実はそうではないのだ。社会が健常者しか容認し得ないが故に「好奇のまなざし」があり、「特別な環境」が用意されているだけのことである。このように「障害個性」論は現実を見ない全くのまやかしにすぎない。これを「一歩進んだ障害者観」と捉える白書の主張も、小池自身が述べているように、全く論理性を欠いている。にもかかわらず彼はこの発想を「障害をこれまでにない前向きの視点からとらえた」と高く評価している。これこそ彼の「障害」に対する考え方の混乱を如実に反映している。

彼の混乱の前提となっているのは「『障害はない方がいい』『障害があるのは不幸』とのぬぐいがたい思い込みがあり、それが障害者を差別したり過度に美談調で賛美したりと特別視する誘因になっています。」ということである。これまで述べてきたように障害が障害である以上、「障害はないほうがいい」し、「障害があるのは不幸」であり、それは排除されるべきである。このことは「ぬぐいがたい思い込み」でもないし、「障害者を差別したり過度に美談調で賛美したりと特別視する誘因」ともなりえない。今日の社会で障害者と呼ばれている人間を取り巻く環境が障害そのものであることは、現実であり、具体的不幸である。そのことは個々の障害者にとってのみならず、健常者をも含めた社会全体にとってもしかり。「障害」を隔てて社会が二分されている構造自体が、人間の社会全体において大きな損失である。障害者に集中する具体的な不幸の現れは、社会が二分されたまま、しかもその比重が健常者群に偏重していることにある。この不幸は障害者と健常者と隔てている障害を除去し、その序列構造を破壊しない限り解消されない。障害者を差別しているのはこの構造であり、「美談調で賛美したりと特別視する誘因」となっているのは、この構造をより強固に固定化せんとする思想そのものであり、それが生み出すシステムの一切である。障害者を差別することも、賛美することも、特別視すること自体が障害者と健常者を隔てている「障害」の具体的現れである。そしてそれらは一般化することによって、あらゆる角度からよりいっそう社会を二極に分化する。

このように障害が社会的損失であることや健常者群偏重の序列構造を形成していること、そして何よりもそのことによる不利益が障害者群に集中しているという現実からも眼を背け、小池は「障害個性」論に依拠しながら「(障害は不幸という)そんな思いを乗り越える可能性がある」と思ったという。このことが、小池自身が言うように論理的な表現でないこと、正しくはでたらめであることだけは確かである。白書はこの特別な考えを「障害者自身や障害者に理解の深い人達の間で広まってきている」として、小池は「我が国の障害者運動の中で、障害があっても人間として誇りを持って生きていきたい、という障害者の切実な願いの中から生まれた主張」として紹介することによって、あたかも自らの免罪符としようとしているようであるが、誰の主張であっても誤りは誤り、混乱は混乱である。

以上が「障害個性」論の破産の現実であるが、それでもあえて障害という概念と個性という概念を結びつけて考えるとすれば、こうした特別の論理まで生み出してでも防衛しなければならない「障害」を一つの軸とする序列構造は、今日の社会独特の強烈な個性と言うことができる。障害者問題を不可避の社会矛盾として抱えながら、「障害」までも序列社会を形成する一つの要素として取り込んでしまった今日の社会は、それを自らの個性にしてしまっているのである。このように障害はそれを特別な理論で個性と定義したとしても、個人の問題ではなく社会の問題である。

「障害」を「個性」と呼べるとき

「障害は個性」とする考え方についてその破産ぶりを明らかにする前に「誤っていないとしても、現実離れするほどに時期尚早かもしくは稚拙である」と書いた。ここではその時期について、しかし今日の状況からはやはりあまりに現実離れしていると思われるので、簡単に触れるにとどめておきたい。

それは少なくとも障害者にとって、社会生活を営む上で何の障害をも存在しなくなったときである。そのときはじめて、今日「精神障害」「身体障害」などと称される個別具体的な特徴を「障害」と切り放して考えること、例えば「個性」として捉えることができる。なぜなら、もはや一切の障害が存在しないからである。

こうした考えは非現実的のようにも思われるかも知れないが、それはそれほど障害者問題が現実的で大きな社会問題であることであり、深刻であることの証左である。「障害個性」論のようにその問題に対する捉え方や意識の問題で解決してしまうほど簡単な問題ではないと言うことである。

障害者と「個性・才能」

「障害個性」論の思想的背景のひとつには、個別の障害者の強烈な個性や類希なる才能が存在する。身体上のハンディを克服せんがための不屈の精神・努力であったり、あるいは傑出した芸術的才能であったりとその現れ方は様々である。歴史的にも評価の高いとされる芸術家に障害者は決して少なくない。それをどう評価するかは別としても、パラリンピックなどのスポーツ大会に出場する選手の鍛え抜かれた精神や肉体などは特筆すべきものがある。もっと言えば、社会環境がそれぞれに適合していないにもかかわらず、そんな社会で生きているだけでも大したものである。

誰もがそのことを知っているから、即ち今日の社会が健常者偏重という障害を抱えていることを知っているから、その中で生きる障害者を評価せずにはおれない。曰く、「障害者であるにもかかわらず、」と言うわけである。

確かに、個々の障害者の中には強烈な個性や特別な才能をもった人は少なくない。しかし、だからといって「障害」を「個性」あるいは「才能」と言うのはあまりに短絡的すぎる。「才能」とは一つの「個性」であるかも知れないが、別の概念である。そのうえいずれにせよ、いずれも「障害」とは別物である。これまで述べてきたように、「障害」とは社会の問題であって個人の問題ではない。だからそれが個人の「性質」や況や「才能」などであろうはずがない。仮にそうであったとすれば、一般に言うところの「障害を克服する」行為とは、「個性」や「才能」を「克服」することになるだろうが、それは具体的に言ってどういう状態を表すことなのか。そうなったとき、その人の「個性」や「才能」はいったいどうなってしまうのか。また、もし「障害」が「個性」や「才能」というのなら、障害者の個性や才能はその「障害」の種類や程度に影響されることになる。

逆に、健常者の「個性」や「才能」について考えるとき、それらは天賦のものであろうと努力によって培われたものであろうと、他との比較の問題において「一般的」とされるものとのズレに対する評価である。なぜ、そうした評価が成立するかと言えば、「健常者のためにつくられた世界」という枠の中では、彼らにとって物理的条件がほぼ均一であるからである。もちろんそうした枠組みの中においても前述の序列が存在するため、個別に均一な条件とは言えないが、その枠の中における「健常者の位置」は同一である。であればこそ「一般的」な環境下における個の存在が、異化されてそれぞれ「個性」として認めることができるのである。

現実の社会においてはここに障害者も存在する。障害者全体は群として、そして任意の条件(種別や程度)によって層として、なおかつそれぞれの具体的条件(生活環境など)によって個として存在する。今日の社会においてその群の位置は、排外主義的に疎外され、そして特別視されている点において同一である。逆に言えば障害者は「一般的」な環境にすら、おかれていない。確かに個人の懸命な努力の結果、「健常者の位置」に近い位置を獲得する障害者も存在するが、それは彼の「個性」「才能」もしくは彼の努力が社会に受容されただけのことであって、障害者が群として健常者と同じ位置を獲得したわけではない。

そのように考えれば、「障害」自体を一つの「個性」とする「障害個性」論は、今日の社会に対する幻想の産物にすぎないことがわかる。今日の社会における障害者と健常者との分岐は、その「個性」や「才能」を認める以前のものである。健常者の社会は、そこに存在する障害者を受容しがたいという障害を自ら内包しているため、人間を健常者群と障害者群とに異化する。この双方の間に決定的な差が存在するそれぞれの条件は、当初からそれらの群に対して社会的に位置づけられたものであって、「個性」などではあり得ない。

「障害」は「個性」や「才能」ではない。しかし、障害者群の中には強烈な個性、才能の持ち主が存在する。これは彼らが障害者と呼ばれていることとは切り放して正当に評価されるべきである。

「『さをり織り』の創始者城みさをさんは、知的障害者の織る作品の素晴らしさに感銘して全国各地への普及を進め、今では海外でも広く取り入れられています。常識や決まり切ったルールにとらわれない作品は芸術性も高く、彼女は『障害は個性というより才能』とまで言っています。」(同前出「論壇」

小池は「障害個性」論の防衛のためにあれこれと例を引いてみせるが、たとえ「障害」が彼らの個性や才能を引き出したとしても、それはそれで別に評価されるべきである。個性や才能に特別な理屈を付ける必要はない。どこまでいっても「障害」は障害にすぎない。

虚構の「障害」観

小池の「障害」に対する考え方の特徴は、それを無条件に障害者のものと考えている点である。「『障害はない方がいい』『障害があるのは不幸』とのぬぐいがたい思い込み」、「障害をこれまでにない前向きの視点からとらえた『障害は個性』の発想」、特徴的なこれらの彼の考えに対する批判については既に述べた。そして更に彼は「『ささえあい』の人間学」(法蔵館刊)を引用しながら、「『障害は個性である』との主張には、障害者と健常者という二分法の下で『障害は克服すべきもの』『苦しくとも障害者はリハビリに励むべき』との一面的な障害者観を見直す意義があると指摘しています。」と主張する。

「障害者と健常者という二分法の下」でなされているとする障害者に対するその克服の強要やリハビリの奨励は果たして本当に「障害者観」の問題なのか。まずここで言われている「二分法」なるものは、これまで何度も述べてきたように社会が構造的に抱えている、あるいは克服し得ていない序列の一つであること。従ってこれは考え方の問題ではなく、現実である。この現実を社会が克服し得ていない以上、障害者は必然的にこの序列の後尾につくことになる。言うまでもなくこの序列が健常者を優先するものであるからである。

序列の後尾につくことを由としないものがとるべき方法は、三通りしかない。序列に従って比較的前列につこうと努力するか、序列そのものを破壊するか、よしとしないながらもあきらめるか、いずれかである。障害者がこの序列に従って比較的前列につこうとする努力こそ、いわゆる克服のために費やされるそれにほかならない。序列が存在する限り、克服への努力は本人の思い以上に周囲の期待も含めて、社会がそれを強要する。序列の優先順位によって彼に対する社会の障害の影響の度合いが違ってくるからである。序列の後尾に位置する障害者に対しては、社会はより重い負担(障害)を彼に強いることになる。社会は障害者を受容しがたいからである。より重度の障害者ほど社会的に疎外され、厳しい条件におかれている現実はその具体的現れである。ここに至っては「障害は個性」などといったところで、「障害者観を見直す」どころか、まじないほどの意味も持たない。

「障害個性」論と「同情の障害者観」との類似性

白書は障害者観を段階別に紹介する。今日主流とされる「共生の障害者観」の前に「同情の障害者観」、そして「共生の障害者観」を経て更に一歩進めたものとして「障害は個性」という考え方を紹介する。さらに「同情の障害者観」の前に「偏見と差別の障害者観」が「もっとも初歩的」と紹介されていることからは、それらの関係が単に時代を追って羅列的に紹介されているのではないことがわかる。しかし、これまで述べてきたように明らかに破産している「障害個性」論を持ち出した結果、彼の主張する段階論に従えば後戻りせざるを得ない結果となっていることは、見過ごすことはできない。

これまで述べてきたように「障害個性」論は、「障害」を個別の障害者が抱える問題としてしまっているところに最大の特徴がある。もとより、「障害」は障害者が負うべき責任の範疇にはない。だから論理的に無理をしてでも、それを「個性」として社会が受け入れるべき性質の問題にする必然があった。しかしこうなると、図式的には社会が受容し得ない問題のかなりの問題、特にあらゆる差別の問題を含めてこれまで述べてきた序列構造にかかわる問題のほとんどを個別の事情、もしくは「個性」に起因する問題とすることが論理的に可能である。当然のことながらこの論理は前提に問題があるため、その一貫性は保ち得ない。早い話がむちゃくちゃである。

その無理を「一歩進めたものとして」通そうとすれば、これまで培ってきた「共生」の哲学までもが引っ込んで、それは「同情の障害者観」に限りなく接近する。即ち「障害個性」論は、あたかも個別の障害者の個性を尊重しつつ、その実、障害者群総体を「障害」という「個性」でひとくくりにしてしまうからである。この障害者群のみに与えられた「個性」は、健常者群との分岐を決定的なものとする。そしてその「個性」を偏見と差別、同情の対象としてきた歴史こそ、白書の言う「古くて初歩的」あるいは「次の段階」の障害者観に他ならない。

当事者運動主義と「障害個性」論

白書においても小池の文章においても、「障害個性」論は障害者自身の主張として紹介されている。「障害者自身や障害者に理解の深い人達の間で広まってきている『障害は個性』という障害者観」、「我が国の障害者運動の中で、障害があっても人間として誇りを持って生きていきたい、という障害者の切実な願いの中から生まれた主張」といった具合である。特に注意しなければならないのは白書の記述を防衛しようとする小池の文章が、「我が国の障害者運動」に全面的に依拠する形で展開されている点である。

このことは今日の政府の障害者問題に対する姿勢の一面を示している。障害者運動の部分を積極的に取り込もうとしている点においてである。逆に言えば、障害者運動が政府にとって無視できない存在となっていることの現れである。かくして政府は障害者問題について考える際、障害者運動に特別の注意を払う必要に迫られている。

一方、日本の障害者運動を担う勢力においては、現在、当事者運動主義が蔓延している。これは多くの場合、文字通り障害者のみに当事者性を付与し、その結集軸によって必ず当事者と非当事者との分断を結果している。それは例えば障害者と健常者、障害者であれば被っている障害の種別・程度、あるいは生活状況・環境といった具合である。具体的には精神障害者、身体障害者、知的障害者、重複障害者、車椅子を利用する者、障害児、外国籍を有する障害者、等々いずれもがそれぞれの異なる条件を持った障害者であるし、総じて障害者である。具体的な条件はそれぞれの現状において更に細分化される。そしてそれぞれの現状においてそれぞれの課題が存在し、それぞれ当事者と非当事者が存在することは言うまでもない。

障害者が障害者としてのアイデンティティを主張することは、当然のことである。しかし、障害者問題の当事者を障害者に限定することは、その問題の本質を切り縮め、運動の主体にまでも当事者・非当事者の楔を打ち込むものでしかない。そのことは、現実にはそれぞれの結集軸に応じて細分化された当事者の分散と混迷とを結果させている。障害者運動総体としては、障害者と健常者、そしてそのそれぞれの中に理解者と非理解者とを形成している。そして通常、当事者と呼ばれているのは障害者のみかもしくはそれに健常者の理解者を加えたものである。いずれにせよ、当事者運動主義において全ての人がその対象となることはあり得ない。であればこそ、「当事者」が強調されるのである。

障害者問題が政府にとって重要な課題となっている今日、政府は障害者運動を無視し得なくなっていることについては既に述べた。そして日本のその障害者運動において、これまで述べてきた当事者運動主義が蔓延していることについても既に述べた。日本の政府には、良きにつけ悪しきにつけその理解者となることが求められたのである。であればこそ白書は「障害者自身や障害者に理解の深い人達の間で広まってきている『障害は個性』という障害者観」を評価し、小池もまた「我が国の障害者運動の中で、障害があっても人間として誇りを持って生きていきたい、という障害者の切実な願いの中から生まれた主張」とそれを「我が国の障害者運動」に依拠しながら防衛しようとするのである。

実際、「障害個性」論はそうした障害者運動の中から生まれた。障害者を受容し得ない社会に対して、自らを「個性ある者」として受け入れるべきと主張したのである。しかし残念ながらこの主張は結局のところ、いつまでたっても社会から疎外され続けていることへの苛立たしさに対する泥縄式の対抗策にすぎない。これは当事者運動主義同様、障害者解放運動において、即時的な利益以上のものをもたらすとは考えにくい。確かに障害者が自らに降りかかる社会的不利益を自覚し、同胞の決起を促して当事者として最初の一歩を踏み出した時代、障害者解放運動はまだ当事者運動にすぎなかったが、それはその限界をはるかに越えて偉大な一歩であったと言える。また「障害個性」論は、社会に対して自らに課せられ続けてきた否定的評価を、従来にない見地から一変させようとした試みであるという点において、それぞれ一面においては肯定的に評価しうる。

しかし思うに、障害とは障害者にではなく社会の内に存在する矛盾であり、障害者を解放することとはその無限に存在する秩序化された序列構造としての障害を除去、もしくは破壊することに他ならないこと、即ち障害者解放運動とはその序列に組み込まれている全ての人々の課題であること、である。こうした見地からすれば「障害個性」論や当事者運動主義は、即時的な運動の利益と引き替えに、これら根本的な障害者問題の根拠、および障害者解放運動の目的や位置づけを歪めたり、曖昧にしてしまったりする限界は否定し得ない。

更に悪いことには「障害個性」論を批判し得ない当事者運動主義においては、その傾向はいっそう克服し難いものとならざるを得ない。「障害個性」論が「先駆的な当事者」によって支持されている場合においては、それらは互いに密通し、それこそ理屈抜きでそれへの批判を許さないからである。白書や小池が「障害個性」論を「障害者自身や障害者に理解の深い人達の間で広まってきている」ことや「我が国の障害者運動の中で、…という障害者の切実な願いの中から生まれた」ことを免罪符のように持ち出すことは、そのことと無縁ではない。かくてその「障害個性」論は、当事者運動主義が蔓延する一部の障害者運動によって生み出され、その「先駆的な当事者」によって広められ、白書における評価を結果した。政府は障害者問題における当事者運動主義勢力を承認し、「『障害は個性』という障害者観」を共通の認識として獲得することによって、本来社会の問題として解決しなければならない障害の問題を「個性」の中に封じ込めてしまったのである。

「街になれる、街がなれる」

「障害者を特別視する障害者観を払拭するためには、障害というものの正しい知識を普及する広報活動ももちろん大切であるが、社会のいろいろな場面に種々の障害のある人がいるのが当たり前という状況にする必要がある。『街になれる、街がなれる』という味わい深い標語がある。障害者はどんどん街に出て街になれる。そのことによって街は、街に住む人々の意識も含め、障害者がいることを当然の前提とした社会になっていくという趣旨である。」(同前出「障害者白書」

以上は白書のこの項の結びである。「街になれる、街がなれる」。標語として用いている分には、味わい深いものなのかも知れないが、これまで批判の対象としてきた「障害個性」論及びそれを利用した政府の目論みなどと考え合わせるなら、この標語こそ、白書における「障害」と「障害者」の関係をもっとも鮮明に映し描いているものであるかも知れない。白書の言うように「障害者を特別視する障害者観を払拭するためには、…社会のいろいろな場面に種々の障害のある人がいるのが当たり前という状況にする必要がある。」即ち社会が完全に障害者を受容する能力を獲得する、つまり社会が内包する障害を完全に除去する必要がある。ところで社会がその能力を獲得するために、どうして障害者が自らを受容し得ない排外主義的な社会(街)にわざわざ出向いて行ってまでその環境に「なれる」必要があるのだろうか。払拭すべき「障害者を特別視する障害者観」や差別的環境は、社会がその責務を負うところのものであって、それはひとり障害者のみに強いられるものではあり得ない。いわばこれは「公的部門の責務」によるところが大きいとも考えられるが、このことについて小池は「基本的人権を保障している憲法の下では、『障害は個性』という見方一つで公的部門の責務が軽減されるということは決してありません。」と主張する。

それでは社会環境としての「街がなれる」ために障害者が「街になれる」ことが前提とされるような標語を持ち出して、いったい白書は何を味わい深げに語ろうとしているのか。障害者が「街になれる」行為の一切を公的部門の責務を果たす公務労働として採用するという意味なのか。障害者が「街になれる」行動(社会参加)を怠けている結果として今日があると言いたいのか。それとも「街になれる」というハードルを越えることのできない人間を周囲と同列に扱う社会など用意するつもりがないと言うことなのか。いずれにせよ、画期的な白書であることは間違いあるまい。

「障害個性」論は当事者運動主義と密通しているが故に、例えばこの度政府が利用しようと怪しげに持ち出してきた味わい深げな標語と結託するなどして、このように障害者問題の放置すら結果しかねない。「障害は個性」という主張の危険性は、およそ以下の点に集約することができる。第一に障害が社会に内在するものであることを隠蔽し、その所在を障害者に求めてしまうこと。第二に、それは障害者群を一つの個性として捉えてしまうことによって、障害者をその群性(「個性」)から永遠に解放し得ないこと、従って第三に個性に対する評価も含めて、障害者が健常者と同じ条件で個として認められる環境を放棄してしまうこと。何故なら、健常者を軸とする今日の社会において健常者の群性は特別な意味を持ち得ない、即ち個性とは言えないが、障害者の群性がここでは特別な意味を持っているからである。以上の三点を容認してしまう「障害個性」論は、障害者問題の本質論議を曖昧なものとし、健常者との間に「個性」という楔を打ち込み、障害者解放運動の前進を阻害する。この限界は当事者運動主義のそれと見事に照応する。

白書は「我が国の障害者運動」やその障害者観、あるいはこうした標語などを持ち出してくることによって、結局のところ政策に対する無条件の協力を無視し得なくなった障害者運動の勢力に呼びかけているのである。

おわりに

さて最後に、障害者が世直し運動さながらに「街になれる」べく、自らを拒む街にどんどん出る話をしよう。

「街になれる、街がなれる」という味わい深い標語があることが、白書で紹介されている。それに従って試しに街に出てみようと思う。「何故そういうことをしなければならないか」などこの際、考えるべきではない。白書のよれば政府は「障害者を特別視する障害者観を払拭するために」、「社会のいろいろな場面に種々の障害のある人がいるのが当たり前という状況にする必要」に迫られているらしいし、「障害者はどんどん街に出て街になれる」ことによって「街は、街に住む人々の意識も含め、障害者がいることを当然の前提とした社会になっていくという」ことらしい。

障害が個性であるとすれば、それを社会に見せつけてその存在を認めさせると言うことか。誰もがそんなことのために街に出かけているとは思えない。そんなことをするためにわざわざ街へ出るなんて、特異な行動のようにも思えてならない。特別視されないだろうか。あまり深く考えるべきではないのかも知れない。運動は理論ではなく、行動が全てという人もいるぐらいである。「障害者を特別視する障害者観を払拭するために」なら、その行動を特別視されるぐらい耐えてみせる。

街へ出てみたら、やはり拒絶されているような気がしてならない。建物だけをとってみても、まるで障害者の進入を拒否しているかのようである。どこへ行っても突き刺さるまなざしは気のせいだろうか。確かに街は変わりつつあるとはいえ、差別されているような、あるいは同情の入り交じった、そんな視線の中での耐え難い疎外感。「街になれる」努力が足りないのか、「街がなれる」までに至っていないのか。それともやはり、ことさらに「個性」を見せつけるために街に出てきた行為が、特別視されているだけのことなのだろうか。

これまでは特に外出の用でもない限り、「街になれる」努力など意識したことがなかったが、これからは「街がなれる」ためにも「個性」をむき出しで世に徘徊した方がいいのだろうか。白書によれば、そのことによって「街は、街に住む人々の意識も含め、障害者がいることを当然の前提とした社会になっていくという」ことらしい。即ち、「個性」と言うよりむしろ、障害者の存在を宣伝するような形で「どんどん街に出る」ことが求められているということか。「何故そういうことをしなければならないか」というはじめの疑問がようやく解けたような気がする。今後障害者がさしたる用もなく、ただ自身と社会とのギャップを誇示しながら街を徘徊することは、お国のためであり、ひいては自身のためということのようである。それにしても風変わりな世直し運動もあったものだと思う。大変な仕事を引き受けることになってしまった。仕事の負担率を考えてほしい。社会とのギャップの大きい、より重度とされる障害者ほど「街になれる」だけでも結構大変なのに、それを「街がなれる」まで続けなければならないとは。自分のためと言われたところで、これでは体のいい勤労奉仕ではないか。

いったいいつからこんな話がまかり通るようになったのだろう。確かにこの運動の形態及び目的は、かつて日本での自覚した障害者による障害者解放運動の萌芽であった。だがそれは抑圧された自己の権利拡大を求めるものとして位置づけられるべきで、それ故他から強要されるべきものではあり得なかった。現在もなお、障害者が「街になれる」努力にいそしむ現実は、そうせざるを得ない環境即ち社会的障害故のことである。現実の社会があまりに多くの障害を抱え込み、そうした特別の訓練抜きに障害者を街に受け入れるほど、充実してはいないからである。全ての人々にとって共同の生活空間であるはずの街が、障害者を拒絶するからである。だから障害者は一方で「街になれる」努力にいそしみ、同時に社会に働きかける様々な行動を通じて、自己の命のために戦ってきたのである。そうした努力を余儀なくされている障害者に対して、なお「街になれる」ことを臆面もなく強要し、「街へ出ろ」と追い立てる白書は、政府のこの問題に対する無策ぶりを吐露している。障害者問題におけるもっとも根本的な「障害」の問題を「個性」の問題とすり替える所以である。

「障害」は社会に内在している。それ以外のいかなる意味においても「個性」ではあり得ない。障害者解放運動は、このもっとも中心的な問題において、はっきりとした回答を提出すべき重大な岐路に立たされている。理論的破産が明らかとなった「障害個性」論が、政府の手によって障害者問題の社会的責任を回避するための免罪符として、あるいは運動を当事者の個別の条件をめぐる問題へと解体せしむる道具として利用されんとしている今日、もはやそれを「個性」の問題として曖昧に放置しておくことは許されない。もっとも重要なことは障害者としての位置を確保することではなくて、人として存在することではなかったのか。


(参考)

「平成7年版 障害者白書 バリアフリー社会をめざして」(総理府編)

第1章 障害者を取り巻く社会環境とまちづくりの変遷

4 意識上の障壁

障害のある人が社会参加しようとしたときのもっとも大きな問題は、社会の中にある心の壁である。多くの障害者やその家族が、心ない言葉や視線、人間としての尊厳を傷つけるような扱いを経験し、社会に積極的に出ていくのをためらうことがあるのは想像に難くない。個々人の障害者観、その総体としての社会の障害者観の変遷の過程はどのようなものであろうか。

古くて初歩的ともいえるのが、無知と無関心による偏見と差別の障害者観である。このような障害者観の下では、障害者を社会にとって役に立たない、迷惑な存在とし、好奇ときには嫌悪の眼で見ることになる。犯罪を精神障害者と短絡的に結びつける発想があったり、地域の中に障害者施設を建設しようとすると反対運動が起きたり、今日でもまだ偏見と差別の障害者観は払拭されていない。

次の段階は、「かわいそう」「気の毒」という憐れみ、同情の障害者観である。障害者を庇護すべき存在と考え、優越的な立場から不幸な障害者のために何かをしてあげようとする姿勢であり、障害者やその家族には決して心地よいものではない。そして障害者が人間として当たり前の要求、権利を主張すると「障害者のくせに」という態度に変わりやすい。

この2つの障害者観は、障害者を障害のない人とは異なった特別の存在と見る点では共通しており、意識上の障壁そのものである。

今日普通の考え方として定着しているのは、障害者は障害のない人と同じ要求・権利を持つ人間であり、社会の中で共に生きていく仲間であるという「共生」の障害者観である。1981年の国連の国際障害者年行動計画では、「障害者は、その社会の他の異なったニーズを持つ特別の集団と考えるべきではなく、その通常のニーズを満たすのに特別の困難を持つ普通の市民と考えられるべきなのである。」と表現している。1975年の「障害者の権利宣言」や「ノーマライゼーション」「インテグレーション」の理念は、共生の障害者観によるものである。

「共生」の考えを更に一歩進めたのが、障害者自身や障害者に理解の深い人達の間で広まってきている「障害は個性」という障害者観である。我々の中には、気の強い人もいれば弱い人もいる、記憶力のいい人もいれば忘れっぽい人もいる、歌の上手な人もいれば下手な人もいる。これはそれぞれの人の個性、持ち味であって、それで世の中の人を2つに分けたりはしない。同じように障害も各人がもっている個性の1つと捉えると、障害のある人とない人といった1つの尺度で世の中を二分する必要はなくなる。そうなればことさらに社会への統合などと言わなくても、一緒に楽しんだり、喧嘩をしたり、困っているときは、お互いに助け合い、支え合う普通の人間関係を築ける社会になるであろうというものである。

障害者を特別視する障害者観を払拭するためには、障害というものの正しい知識を普及する広報活動ももちろん大切であるが、社会のいろいろな場面に種々の障害のある人がいるのが当たり前という状況にする必要がある。「街になれる、街がなれる」という味わい深い標語がある。障害者はどんどん街に出て街になれる。そのことによって街は、街に住む人々の意識も含め、障害者がいることを当然の前提とした社会になっていくという趣旨である。


(補足)

以前わたしは、「『障害者』と『障害物』」(「わだち」創刊号掲載)という文章において、「障害者」という用語を以下のように整理した。

「障害者」と「障害物」

私達は障害者のことを今日一般的に呼ばれているようにそう呼んでいるが、このことについて全く無関心であるわけではないことを簡単に明らかにしておきたい。

障害者という表現について考える前にまず、「障害物」について考えてみたい。障害物というのは言うまでもなく、人が通行したりする際の妨げとなるものである。もっとわかりやすく言えば駅の周辺で見かける放置自転車であったり、運動会の「障害物競走」なんかで競技者の走行の妨げとするために置かれているハードルやなんかがそうであろう。

であるならば「障害者」という表現はきわめて問題のある表現であると言わざるを得ない。すなわち障害者が誰の妨げをしているのか、また、誰にとって障害者は「障害」なのか、という点においてである。もしそれが健常者(社会)の妨げなのだとしたら、この表現自体が差別的であることは言うまでもない。だからだろうか、障害者という表現に代えて様々なグループが様々な表現を用いている(「障害者」、「障害」者、**の不自由な人、ハンディキャップ者、等々)。しかし、実際の使われ方は「障害物」という表現が「障害となる物」として用いられているのに対し、「障害者」は「障害となる者」ではなく、「機能障害のある者」というように用いられているのが一般的である。

私達は障害者という表現について基本的にはこうした立場から用いている。読者諸氏のご意見をお聞かせ願いたい。

また、「検証:障害者解放運動わだち舎」(「わだち」No.4掲載)においては、以下のように整理してきた。

そうしたことから私達は全ての会員について障害者であるか否かなどは把握していない。現在の私達の組織活動においてその必要がないと言うのも理由の一つだが、理論的には私達は今日の「障害者」「健常者」と言った区分にさえ疑問を感じているからである。少なくとも日本の法体系においては障害者の充分な定義すらなされていない。また「WHOの定義づけでは損傷や機能不全が社会的支障をもたらすのを障害とする。」(「スウェーデンの障害者の権利」竹崎つとむージュリスト No.970)とされている。「そもそも障害と呼ばれるものは、周囲や状況との相対関係でわざわざつくりだされるところから、『障害とは、それぞれ個人が有する能力と社会が意識的、無意識的に定めた水準や基準との間の格差ないしギャップ』で、問題となるのは、個人が社会に合わせるのか、社会が個人に合わせるのか、とされるが、むろんスウェーデンはは社会自らが変形すべきとしている。」(同前)

氏はここでいわゆる「障害者」の「障害」についての定義を巡って日本の法体系の不充分性を暴露しながらWHOやスウェーデンにおける現状と比較しつつ、「障害」の内実と「定義」の接近を試みている。私達はこの間の現実の運動を推し進める中で障害者解放運動の主体性について検討し、社会の変革によって「障害」及び「障害者」の定義そのものが揺らぐ可能性が充分にあり、またそうした社会変革自体が障害者解放運動の重要な柱であると確信している。

「検証:障害者解放運動わだち舎」(「わだち」No.4掲載)より

本稿はそれらの「障害者」の定義を再度整理しなおす上においても、少なからず意味を持つものと考えている。しかし当分の間は「障害者」という呼称を用いなければなるまい。それは、現在の段階ではその呼び名をいかに取り繕おうとも、その意味するところが変わるものとは考えられないからであり、また今日においては「奴隷の言葉」とも言うべきこの表現の方が、残念ながら一般的であるという点において「障害者問題」へのより広範な理解を助けることになると考えるからである。

障害者解放運動わだち舎機関誌『わだち』No.37、1996年7月。


2009年9月23日水曜日
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